都落ちした尊氏でしたが、九州で兵力をまとめると持明院統の光厳上皇(こうごんじょうこう)から院宣(いんぜん)を受け、自らの軍の正当性を確保したうえで、再び京都を目指して東上(とうじょう)しました。
尊氏の動きに対して、後醍醐天皇は楠木正成に摂津(せっつ)の湊川(みなとがわ、現在の兵庫県神戸市湊川)で尊氏軍を迎(むか)え討(う)つよう命じられましたが、正成は尊氏に敗れて自害しました。この戦いは湊川の戦い(みなとがわのたたかい)と呼ばれています。
尊氏が再び京都を制すると、後醍醐天皇は比叡山(ひえいざん)に逃(のが)れられ、光厳上皇の弟にあたる光明天皇(こうみょうてんのう)が新たに即位されたことで、再びお二人の天皇が同時にご在位されることになりました。後醍醐天皇は京都に幽閉(ゆうへい、閉じ込めて外に出さないこと)された後、尊氏との和睦(わぼく)に応じて天皇であることを証明する三種の神器(さんしゅのじんぎ)を光明天皇に渡されましたが、その後に隙(すき)を見て京都を脱出され、奈良の吉野(よしの)へ向かわれました。
吉野に到着(とうちゃく)された後醍醐天皇は、光明天皇に渡された三種の神器は偽物(にせもの)であると宣言(せんげん)されて、新たに朝廷を開かれた後、1339年に崩御されました。こうして京都の朝廷(=持明院統)と吉野の朝廷(=大覚寺統)とが並立し、以後約60年にわたって争いを繰(く)り返す南北朝の動乱が本格的に始まったのです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち おはようございます!
日本の国土全体を舞台にして、追い詰め合う後醍醐天皇と尊氏の一連の流れが手に取るように分かりました。理解しやすい記事をいつもありがとうございますm(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 こちらこそいつも励ましのお言葉を有難うございます。
文章としては短いですが、その中で一連の大きな流れをほぼ入れることができて良かったです。
日本の国土全体を舞台にして、追い詰め合う後醍醐天皇と尊氏の一連の流れが手に取るように分かりました。理解しやすい記事をいつもありがとうございますm(_ _)m
応援凸
文章としては短いですが、その中で一連の大きな流れをほぼ入れることができて良かったです。