1246年、後嵯峨天皇(ごさがてんのう)が子の後深草天皇(ごふかくさてんのう)に譲位(じょうい)されて院政(いんせい)を始められると、その後に後深草天皇の弟である亀山天皇(かめやまてんのう)に譲位させ、さらに亀山天皇の子の世仁親王(よひとしんのう)を皇太子にされました。
その後、後嵯峨上皇(後に出家されて法皇=ほうおうとなられました)が1272年に皇位の継承者を鎌倉幕府に一任される形で崩御(ほうぎょ)されると、幕府は世仁親王を後宇多天皇(ごうだてんのう)として即位(そくい)させる一方で、次の皇太子を後深草天皇の子である熈仁親王(ひろひとしんのう)に決めました。
要するに、幕府の調停によって後深草天皇の血統である持明院統(じみょういんとう)と、亀山天皇の血統である大覚寺統(だいかくじとう)とが、まるでキャッチボールのように交代しながら皇位につかれることになったのです。
こうした両統迭立(りょうとうてつりつ)が続いたことによって、両統は幕府に働きかけて自己の血統(けっとう)に有利な地位を得ようとするなど、やがてお互(たが)いに激しく争(あらそ)うようになりました。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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来栖 はじめまして。
いつも楽しく読ませて
頂いております。
最近、日本史に興味があり
歴史の本など読むようになりました。
疑問に思うことがあり、
一点質問させてください。
お時間がありましたら、是非
お答えして頂きたく思います。
鎌倉幕府、江戸幕府で武家が
政治を行っている時代で、
公家の人々は具体的に何をやってたん
でしょうか?
どうも、この公家の役割がよくわかりません。
ぴーち おはようございます!
関係が良好なうちは、両天皇もそれなりに
互いの存在を認め合いながら進行出来ていたものの、どちらともなく欲が出て、我を主張し始めるようになると、途端にもろくも関係が崩れ去る。
一方、党派寄せ集めの政党なども直ぐに仲間割れして、内輪もめが絶えず、結果的に国民そっちのけになってしまうのは、世の習いであると言えましょうか。
国民がその道理をもっと理解していれば、知名度の高さだけを売り物にしている様な無能な政治家に一票を投じる事も無くなるのかも知れませんね。歴史を学び、理解していく事が今さらながら大切であると感じます。
やはり上に立つものは、一統であるべきですね。
応援凸
来栖さんへ
黒田裕樹 はじめまして、当ブログへお越しくださって有難うございます。
ご質問の件ですが、公家は鎌倉幕府の当初は西国の政権に影響を持っていたのですが、承久の乱で幕府が西国にまで支配を強めると次第に有名無実化していきました。その後の公家たちは、かつての栄光を懐かしみながら、朝廷の儀式や先例を研究する学問である有職故実(ゆうそくこじつ)の研究を盛んに行うようになります。
江戸幕府の頃も基本的に変わりませんが、徳川家が皇室の影響を抑えるために禁中並公家諸法度によって公家の地位を高めたことで、実権こそなかったものの優遇された傾向にあるといえますね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、両統迭立には無理がありすぎますね。
調停を頼まれた形になった幕府もたまったものではなかったかもしれません。
その流れは現代においても同じだというのは私も同感です。
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頂いております。
最近、日本史に興味があり
歴史の本など読むようになりました。
疑問に思うことがあり、
一点質問させてください。
お時間がありましたら、是非
お答えして頂きたく思います。
鎌倉幕府、江戸幕府で武家が
政治を行っている時代で、
公家の人々は具体的に何をやってたん
でしょうか?
どうも、この公家の役割がよくわかりません。
関係が良好なうちは、両天皇もそれなりに
互いの存在を認め合いながら進行出来ていたものの、どちらともなく欲が出て、我を主張し始めるようになると、途端にもろくも関係が崩れ去る。
一方、党派寄せ集めの政党なども直ぐに仲間割れして、内輪もめが絶えず、結果的に国民そっちのけになってしまうのは、世の習いであると言えましょうか。
国民がその道理をもっと理解していれば、知名度の高さだけを売り物にしている様な無能な政治家に一票を投じる事も無くなるのかも知れませんね。歴史を学び、理解していく事が今さらながら大切であると感じます。
やはり上に立つものは、一統であるべきですね。
応援凸
ご質問の件ですが、公家は鎌倉幕府の当初は西国の政権に影響を持っていたのですが、承久の乱で幕府が西国にまで支配を強めると次第に有名無実化していきました。その後の公家たちは、かつての栄光を懐かしみながら、朝廷の儀式や先例を研究する学問である有職故実(ゆうそくこじつ)の研究を盛んに行うようになります。
江戸幕府の頃も基本的に変わりませんが、徳川家が皇室の影響を抑えるために禁中並公家諸法度によって公家の地位を高めたことで、実権こそなかったものの優遇された傾向にあるといえますね。
調停を頼まれた形になった幕府もたまったものではなかったかもしれません。
その流れは現代においても同じだというのは私も同感です。