休憩時、岩倉は外で警備をしていた西郷隆盛に意見を求めると、西郷は「短刀一本あれば用は足りる」と答えたそうです。つまり、相手と差し違えるだけの覚悟をもてば道は開ける、と岩倉を勇気づけたのでした。
西郷の発言がやがて山内容堂の耳にまで届くと、土佐藩に傷をつけてまで幕府に肩入れすることはない、と判断した山内がその後沈黙したこともあり、休憩後はほぼ岩倉らの思いどおりに会議が進みました。結局、慶喜は将軍のみならず、内大臣(ないだいじん)の辞任と領地を一部返上させられることで決着したのです。
慶喜は、会議後に京都から大坂城に引きあげましたが、当初は新政府との表立っての衝突(しょうとつ)を避けようとしていました。しかし、会議の決定を不服とした旧幕府兵が、江戸の薩摩藩の屋敷を焼き討ちにするという事件が発生したことで、慶喜も最終的に新政府軍と武力で戦うことを決断しました。
世にいう戊辰戦争(ぼしんせんそう)の始まりです。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、志士という言葉が大好きです。
志を持った侍という意味で、身分が低くても
志士があるということで、尊敬の対象になるからです。
ただ、この時代、志ではなく、剣の力だけで
のし上がろうとする
新撰組、岡田以蔵(人斬り以蔵)がいましたが、
結局、どんなに剣が強くても、
志と最新兵器の前では、消えていく運命だったんですね。。
青田さんへ
黒田裕樹 幕末から維新にかけては、仰るとおり志士の時代でした。
しかし、新選組の全盛期の頃はともかく、戊辰戦争までには剣ではなく鉄砲などの火器の時代になっていたんですね。鳥羽・伏見の戦いで新選組が完敗したのが象徴的です。
奇兵隊
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
新撰組と対極をなすのが、奇兵隊ですね。
武士以外の身分でも、近代の軍隊として、最新兵器の訓練をすれば、
剣の能力がなくても、十分に実戦で、通用しました。
奇兵隊は、なくなりますが、
その後、明治になっての国民皆兵による鎮台兵が
西南戦争で、最強の薩摩士族を打ち破ってことで
剣の時代の終焉を証明しましたね。
(ネタバレになるので、ここまでにしますね。)
オバrev これは外堀、内堀を埋められて、戦争しか道がないと決断せざるを得なかったんじゃないでしょうか。
歴史的にも、戦争は追い込まれて他に道がなくなった時に起こさざるを得なくて起こっているような気がしますがどうですか?
法理論的には、
晴雨堂ミカエル 法理論的には、政権返上を表明したとはいえ、左大臣・右大臣に次ぐ元首級の官職に就いているので、土佐藩の言い分は正論。
明治維新は強引ですね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、奇兵隊は身分に関係なく兵を集めましたが、最新兵器を駆使して長州藩の保守派を圧倒しました。
この経験が、その後の戊辰戦争~西南戦争の流れにつながっていますね。
オバrevさんへ
黒田裕樹 そのとおりですね。慶喜は戦争をしたくなかったようですが、部下が暴発してやらざるを得なくなりました。
しかし、部下からすれば戦わずして敗れることが許せなかったのでしょう。
部下の思いも分かりますが、そんな部下を抑えることができなかった将軍慶喜は、やはり追い込まれて戦うしか道がなかったといえますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
討幕派側からすれば徳川家が新政権に残っては何の意味もない。だからこその強引な小御所会議でした。
ただ、どちらが是か非かは簡単には論じられないものの、結果として徳川家を抜いたことでその後の明治政府による政治が確立したとも言えそうです。
歴史のif
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
坂本龍馬、山内容堂は、徳川慶喜を新政府入りを
考えていました。
もし、薩摩・長州などの新政府軍がもっとリベラルで、
たとえ、徳川家であっても、優秀な人間は、新政府のメンバーとして、働いてもらおうと考えたとします。
私は、そうすると
① 北越戦争、会津戦争、東北・北海道の戦いは
せずに、官軍も無駄なエネルギーを浪費せずにすんだ。
② 幕府、佐幕派の藩の中でも優秀な人材を活用でき、その後、新政府軍のとって、貴重な人財として、活用できた。
もちろん、幕府の石高は、莫大で、新政府軍にそのままのカタチで、加わると脅威かもしれませんが、後に廃藩置県を断行したことを思えば、可能だったと思います。
それと
もし、坂本龍馬が生きていれば、無駄の血を流さずにすんだと思うのですが、いかがでしょうか。
青田さんへ その3
黒田裕樹 極めて微妙ですね。
確かに幕府の優秀な役人は新政府にそのまま雇用されたかもしれません。
しかし、廃藩置県は事後に詳しく紹介しますが、薩長が先頭に立ってこそ実現できたことですので、徳川家の領土が残っている場合には史実のように強引に達成できたかどうか分かりません。
また、何よりも討幕派と佐幕派との間でそれまでに多くの血を流し過ぎています。
薩長のように和解しようにも、組織が大きすぎて困難でしょう。
そう考えれば、私は龍馬の有無にかかわらず戊辰戦争は避けられなかったと考えております。
ぴーち おはようございます!
これだけ何百年と続いて来た一つの時代が変革を遂げるときというのは、やはりそれなりの抵抗勢力が起こっても仕方が無かったのでしょうね。どうしても避けられない運命的な闘い。。。成るように成るが如く起こった戦争でもあった訳ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですね。
260年以上続いた組織をたった一日でひっくり返そうというのですから、大きな抵抗があって当たり前だと思います。
それだけ大きな抵抗があれば、いかに将軍といえどもよほどのカリスマ性がなければ組織の引き締めは不可能でしょう。
戊辰戦争は仰るとおり、避けられない運命だったのかもしれません。
納得できないこと
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
いつも、このことがドラマで、描かれると
???を感じます。
というのも、将軍継承問題の時、元々、徳川慶喜を将軍にしようと画策したのは、薩摩藩であり、
島津斉彬でした。
そして、そのために西郷隆盛が島津斉彬の手足となって、動き、篤姫も将軍の正室に送り込んだはずです。
たしかに、その時は、公武合体の考えだったとは
思いますが、
薩摩藩が推していた優秀とされた徳川慶喜をそこまで、追い込む必要性がわかりません。
薩摩藩は、かつて、長州藩が嫌っただけではなく、幕府にとっても信用できない存在のような気がします。(平然と密貿易をしていましたし)
これは、歴史のifですが、やはり、徳川家康、あるいは、徳川幕府は、島津を将来の憂いをなくすために
何があっても、どんな手を使っても、潰しておくべきでしたね。(おそらく、家康も死ぬまで、気になっていたと思いますが)
青田さんへ その4
黒田裕樹 仰ることについては一昨年11月の「第20回歴史講座」にも書かせていただいておりますが、自分が推した慶喜を退け、勅許もなしに条約を結んだ井伊直弼に抗議する意味で、斉彬は挙兵しようとしました。
ところが、斉彬が急死したために久光が実権を握り、彼の考えで薩摩藩は公武合体派になりました。
しかし、西郷隆盛が復帰したことで、今度は幕府に見切りを付けて討幕に走ることになります。
従って、慶喜を推した斉彬の時代と幕府を滅亡させた西郷の時代とでは、薩摩藩の考えが全く異なるという結論となり、慶喜を追い込んだ原因も時代の流れによる変化のせいといえるでしょう。
島津家を潰せなかったのは仰るとおり家康の失敗といえますね。しかし関ヶ原の戦いで生き残り、鹿児島に戻って徹底抗戦を続けた島津家は、もはや取り潰しが不可能だったのもまた事実です。
九州征伐
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
慶喜についても
やはり、この時代は、西郷がキーパーソンになっていたんですね。
ところで、島津潰しですが、あの豊臣秀吉も九州征伐は、成功したのに
薩摩に本領安堵はしました。
しかし、小田原征伐の時、北条氏は、領地没収でした。
あの豊臣秀吉も島津の領地だけは、アンタッチャブルにしたのは、他の戦国大名の猛将とは、全く、違う怖さを感じていたんでしょうね。
それにしても、関ヶ原の戦いの1500人での敵中突破というのは、冷静に考えると尋常の戦闘力ではないですね。(通常、そんなことを誰も考えません。)
しかも、薩摩まで、無事に辿り着いたのも凄いです。
今でこそ、九州新幹線で、鹿児島まで、3時間30分ですが、あの時代の薩摩は、とてつもなく、遠い国だったでしょうね。
青田さんへ その5
黒田裕樹 仰るとおりだと思います。
北条氏と違って我が国の端に位置していたことが、江戸からの遠さへのイメージにもつながっていたのでしょう。
薩摩に潜り込んだ隠密が誰一人として帰って来なかったという伝説もありますからね。
こんばんは
青田です。
私は、志士という言葉が大好きです。
志を持った侍という意味で、身分が低くても
志士があるということで、尊敬の対象になるからです。
ただ、この時代、志ではなく、剣の力だけで
のし上がろうとする
新撰組、岡田以蔵(人斬り以蔵)がいましたが、
結局、どんなに剣が強くても、
志と最新兵器の前では、消えていく運命だったんですね。。
しかし、新選組の全盛期の頃はともかく、戊辰戦争までには剣ではなく鉄砲などの火器の時代になっていたんですね。鳥羽・伏見の戦いで新選組が完敗したのが象徴的です。
こんばんは
青田です。
新撰組と対極をなすのが、奇兵隊ですね。
武士以外の身分でも、近代の軍隊として、最新兵器の訓練をすれば、
剣の能力がなくても、十分に実戦で、通用しました。
奇兵隊は、なくなりますが、
その後、明治になっての国民皆兵による鎮台兵が
西南戦争で、最強の薩摩士族を打ち破ってことで
剣の時代の終焉を証明しましたね。
(ネタバレになるので、ここまでにしますね。)
歴史的にも、戦争は追い込まれて他に道がなくなった時に起こさざるを得なくて起こっているような気がしますがどうですか?
明治維新は強引ですね。
この経験が、その後の戊辰戦争~西南戦争の流れにつながっていますね。
しかし、部下からすれば戦わずして敗れることが許せなかったのでしょう。
部下の思いも分かりますが、そんな部下を抑えることができなかった将軍慶喜は、やはり追い込まれて戦うしか道がなかったといえますね。
討幕派側からすれば徳川家が新政権に残っては何の意味もない。だからこその強引な小御所会議でした。
ただ、どちらが是か非かは簡単には論じられないものの、結果として徳川家を抜いたことでその後の明治政府による政治が確立したとも言えそうです。
こんばんは
青田です。
坂本龍馬、山内容堂は、徳川慶喜を新政府入りを
考えていました。
もし、薩摩・長州などの新政府軍がもっとリベラルで、
たとえ、徳川家であっても、優秀な人間は、新政府のメンバーとして、働いてもらおうと考えたとします。
私は、そうすると
① 北越戦争、会津戦争、東北・北海道の戦いは
せずに、官軍も無駄なエネルギーを浪費せずにすんだ。
② 幕府、佐幕派の藩の中でも優秀な人材を活用でき、その後、新政府軍のとって、貴重な人財として、活用できた。
もちろん、幕府の石高は、莫大で、新政府軍にそのままのカタチで、加わると脅威かもしれませんが、後に廃藩置県を断行したことを思えば、可能だったと思います。
それと
もし、坂本龍馬が生きていれば、無駄の血を流さずにすんだと思うのですが、いかがでしょうか。
確かに幕府の優秀な役人は新政府にそのまま雇用されたかもしれません。
しかし、廃藩置県は事後に詳しく紹介しますが、薩長が先頭に立ってこそ実現できたことですので、徳川家の領土が残っている場合には史実のように強引に達成できたかどうか分かりません。
また、何よりも討幕派と佐幕派との間でそれまでに多くの血を流し過ぎています。
薩長のように和解しようにも、組織が大きすぎて困難でしょう。
そう考えれば、私は龍馬の有無にかかわらず戊辰戦争は避けられなかったと考えております。
これだけ何百年と続いて来た一つの時代が変革を遂げるときというのは、やはりそれなりの抵抗勢力が起こっても仕方が無かったのでしょうね。どうしても避けられない運命的な闘い。。。成るように成るが如く起こった戦争でもあった訳ですね。
応援凸
260年以上続いた組織をたった一日でひっくり返そうというのですから、大きな抵抗があって当たり前だと思います。
それだけ大きな抵抗があれば、いかに将軍といえどもよほどのカリスマ性がなければ組織の引き締めは不可能でしょう。
戊辰戦争は仰るとおり、避けられない運命だったのかもしれません。
こんばんは
青田です。
いつも、このことがドラマで、描かれると
???を感じます。
というのも、将軍継承問題の時、元々、徳川慶喜を将軍にしようと画策したのは、薩摩藩であり、
島津斉彬でした。
そして、そのために西郷隆盛が島津斉彬の手足となって、動き、篤姫も将軍の正室に送り込んだはずです。
たしかに、その時は、公武合体の考えだったとは
思いますが、
薩摩藩が推していた優秀とされた徳川慶喜をそこまで、追い込む必要性がわかりません。
薩摩藩は、かつて、長州藩が嫌っただけではなく、幕府にとっても信用できない存在のような気がします。(平然と密貿易をしていましたし)
これは、歴史のifですが、やはり、徳川家康、あるいは、徳川幕府は、島津を将来の憂いをなくすために
何があっても、どんな手を使っても、潰しておくべきでしたね。(おそらく、家康も死ぬまで、気になっていたと思いますが)
ところが、斉彬が急死したために久光が実権を握り、彼の考えで薩摩藩は公武合体派になりました。
しかし、西郷隆盛が復帰したことで、今度は幕府に見切りを付けて討幕に走ることになります。
従って、慶喜を推した斉彬の時代と幕府を滅亡させた西郷の時代とでは、薩摩藩の考えが全く異なるという結論となり、慶喜を追い込んだ原因も時代の流れによる変化のせいといえるでしょう。
島津家を潰せなかったのは仰るとおり家康の失敗といえますね。しかし関ヶ原の戦いで生き残り、鹿児島に戻って徹底抗戦を続けた島津家は、もはや取り潰しが不可能だったのもまた事実です。
おはようございます。
青田です。
慶喜についても
やはり、この時代は、西郷がキーパーソンになっていたんですね。
ところで、島津潰しですが、あの豊臣秀吉も九州征伐は、成功したのに
薩摩に本領安堵はしました。
しかし、小田原征伐の時、北条氏は、領地没収でした。
あの豊臣秀吉も島津の領地だけは、アンタッチャブルにしたのは、他の戦国大名の猛将とは、全く、違う怖さを感じていたんでしょうね。
それにしても、関ヶ原の戦いの1500人での敵中突破というのは、冷静に考えると尋常の戦闘力ではないですね。(通常、そんなことを誰も考えません。)
しかも、薩摩まで、無事に辿り着いたのも凄いです。
今でこそ、九州新幹線で、鹿児島まで、3時間30分ですが、あの時代の薩摩は、とてつもなく、遠い国だったでしょうね。
北条氏と違って我が国の端に位置していたことが、江戸からの遠さへのイメージにもつながっていたのでしょう。
薩摩に潜り込んだ隠密が誰一人として帰って来なかったという伝説もありますからね。