しかし、そんなことを許しては苦労して討幕運動を続けてきた意味がない、と憤った薩長両藩や公家の岩倉具視(いわくらともみ)らの討幕派は、慶応3(1867)年12月9日に、武力を背景に朝廷内で政変を実行しました。これを王政復古の大号令といいます。
王政復古の大号令によって、天皇親政による新政府の樹立が宣言されましたが、新政府は江戸幕府のみならず摂政や関白をも廃止し、新たに総裁(そうさい)・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)の三職(さんしょく)を創設しました。
なお、総裁には有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が就任し、議定には公家の中山忠能(なかやまただやす)や前土佐藩主の山内容堂らが、参与には岩倉具視(のち議定に異動)や、雄藩の代表として薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、長州藩の木戸孝允(=桂小五郎)、土佐藩の後藤象二郎らが任命されました。





いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
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ぴーち おはようございます!
王政復古の大号令という言葉だけはよく覚えていますが、それがどんな人物達が関わり、どんなものだったのかという事は全くその当時は頭に入らなかったのですが、こうして改めてお話を伺うっているとそういうことだったのかと容易に理解することができました。
ありがとうございますm(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 お言葉有難うございます。
歴史用語は覚えていても、その関連がつかないということはよくありますよね。
せっかく学習するのですから、流れも含めてしっかりと理解しておきたいものです。
当ブログがお役に立てれば幸いですね。
坂本龍馬の暗殺
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
坂本龍馬の暗殺の真犯人ですが、京都見廻組の佐々木忠三郎と言われていますが、黒幕説が
いろいろとあります。
一番、得をした人間を疑えの原則に従って、
仮説を考えてみました。
◆ 長州藩説・・・倒幕を考えている長州藩にとって、坂本龍馬の「大政奉還」は、受け入れられないことである。
(それにたいしての反論)
当時、長州藩は、まだ、京都を自由に動き廻れる状況ではなく、しかも、大政奉還に反対なら
坂本龍馬よりも、後藤象二郎か、山内容堂を狙うはず。
◆ 薩摩藩説・・・同じく、討幕を考えている薩摩藩にとって、坂本龍馬は、邪魔な存在である。
しかも、京都での活動は、長州藩よりも活発にできた。しかも、坂本龍馬の居場所をこの時、知っていたのは、薩摩藩、土佐藩などに限られていた。
(それにたいしての反論)
この時、薩摩藩の中心となっていた西郷隆盛、大久保利通は、京都にはいないで、薩摩藩の藩論を
まとめるのに奔走していた。
大久保、西郷のいない京都で、単独で薩摩藩が龍馬を殺すのは、考えにくい。
しかも、西郷は、坂本龍馬にたいして、かなり、尊敬の念を持っていた。
◆ 紀州藩説・・「いろは丸事件」の報復で坂本龍馬を殺した。
(それにたいして藩論)
「いろは丸事件」から、かなりの月日が経っていて、もし、坂本龍馬を暗殺するなら、もっと早くできたはずである。しかも、坂本龍馬の居場所を知ることは、至難の技。
こう考えると
やはり、佐々木只三郎の単独犯説が一番、有力ですね。
とういのも、小太刀の名手であり、清河八郎の暗殺の実行犯ですから。。
青田さんへ
黒田裕樹 ご推察のとおりかと思われます。
本能寺の変と同様、数々の憶測が考えられる中で、単独犯というのは盲点ですね。
新政府内のパワーバランス
青田です。 黒田先生
おはようございます。
青田です。
私は、西南戦争までは、新政府内のパワーバランス(力関係)では、その主力は、薩摩だと考えていました。
(後に、西南戦争で、薩摩閥の力が弱くなり、長州閥が大きくなると思いますが、)
しかし、この新政府の役職を観てみると非常にバランスの取れたポスト配置なので、驚きました。
というのも、長州藩への配慮はあるにしろ、土佐藩への配慮もきっちりしているのですね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、この頃の役職は比較的平等ですね。本格的な派閥争いは戊辰戦争後に内乱が一段落してからでしょうか。
なお、肥前佐賀藩は戊辰戦争での活躍後に名前を連ねることになりますね。
王政復古の大号令という言葉だけはよく覚えていますが、それがどんな人物達が関わり、どんなものだったのかという事は全くその当時は頭に入らなかったのですが、こうして改めてお話を伺うっているとそういうことだったのかと容易に理解することができました。
ありがとうございますm(_ _)m
応援凸
歴史用語は覚えていても、その関連がつかないということはよくありますよね。
せっかく学習するのですから、流れも含めてしっかりと理解しておきたいものです。
当ブログがお役に立てれば幸いですね。
こんにちは
青田です。
坂本龍馬の暗殺の真犯人ですが、京都見廻組の佐々木忠三郎と言われていますが、黒幕説が
いろいろとあります。
一番、得をした人間を疑えの原則に従って、
仮説を考えてみました。
◆ 長州藩説・・・倒幕を考えている長州藩にとって、坂本龍馬の「大政奉還」は、受け入れられないことである。
(それにたいしての反論)
当時、長州藩は、まだ、京都を自由に動き廻れる状況ではなく、しかも、大政奉還に反対なら
坂本龍馬よりも、後藤象二郎か、山内容堂を狙うはず。
◆ 薩摩藩説・・・同じく、討幕を考えている薩摩藩にとって、坂本龍馬は、邪魔な存在である。
しかも、京都での活動は、長州藩よりも活発にできた。しかも、坂本龍馬の居場所をこの時、知っていたのは、薩摩藩、土佐藩などに限られていた。
(それにたいしての反論)
この時、薩摩藩の中心となっていた西郷隆盛、大久保利通は、京都にはいないで、薩摩藩の藩論を
まとめるのに奔走していた。
大久保、西郷のいない京都で、単独で薩摩藩が龍馬を殺すのは、考えにくい。
しかも、西郷は、坂本龍馬にたいして、かなり、尊敬の念を持っていた。
◆ 紀州藩説・・「いろは丸事件」の報復で坂本龍馬を殺した。
(それにたいして藩論)
「いろは丸事件」から、かなりの月日が経っていて、もし、坂本龍馬を暗殺するなら、もっと早くできたはずである。しかも、坂本龍馬の居場所を知ることは、至難の技。
こう考えると
やはり、佐々木只三郎の単独犯説が一番、有力ですね。
とういのも、小太刀の名手であり、清河八郎の暗殺の実行犯ですから。。
本能寺の変と同様、数々の憶測が考えられる中で、単独犯というのは盲点ですね。
おはようございます。
青田です。
私は、西南戦争までは、新政府内のパワーバランス(力関係)では、その主力は、薩摩だと考えていました。
(後に、西南戦争で、薩摩閥の力が弱くなり、長州閥が大きくなると思いますが、)
しかし、この新政府の役職を観てみると非常にバランスの取れたポスト配置なので、驚きました。
というのも、長州藩への配慮はあるにしろ、土佐藩への配慮もきっちりしているのですね。
なお、肥前佐賀藩は戊辰戦争での活躍後に名前を連ねることになりますね。