しかし同盟をあきらめなかった龍馬や中岡は、討幕のために最新鋭の武器が欲しい長州藩と、琉球(りゅうきゅう)を通じての密貿易が得意な薩摩藩という両藩の思惑(おもわく)を一致(いっち)させることで、薩長両藩の和解を進めることを実現させました。
こうした努力が実って、1866年1月に薩長両藩はついに軍事同盟の密約(みつやく)を結びました。これを薩長同盟(さっちょうどうめい)、あるいは薩長連合(さっちょうれんごう)といいます。
一度は激しく戦った薩長両藩が軍事同盟を結ぶまでに関係を修復させたのは、間違いなく龍馬や中岡の大きな功績であり、また両藩が経済的な結びつきから和解につながったという事実は、土佐の商家出身であり、現在の株式会社の原型ともいえる亀山社中(かめやましゃちゅう)を組織していた龍馬ならではの発想といえるのではないでしょうか。
なお、龍馬の亀山社中は1867年に海援隊(かいえんたい)と名を改めています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)





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晴雨堂ミカエル 中岡慎太郎も侍の姿をしていますが、士農工商の身分制度に振り分ければ農民、大百姓になります。
庄屋として村の行政に携わっていましたから、村民同士の利害関係の処理やお上との交渉など、長けていたはずですね。
オバrev 個人的以外は、今でもやっぱ経済的結びつきが最優先されているような気がします。
でも当時は、なかなかそういう発想にならなかったんでしょうね。
そして不可能と思われた薩長同盟を締結に持っていくのは、経済を最優先にしながら、まさに複雑なパズルを合わせながら、針の穴に糸を通すような緻密な根気のいる作業じゃなかったんでしょうか。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
龍馬と中岡の両人が手を携えてこそ、薩長同盟が成り立ったといえると思います。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、龍馬と中岡の不断の努力がそれこそ絶対不可能と思われた同盟を成功へと導いたと思います。
発想だけでなく、実行力も必要ということですね。
ぴーち おはようございます!
お互いの過去には一切触れず
現在の両藩の思惑に着眼し、
未来志向の話をぶつけていった訳ですね。
応援凸
黒田先生へ
EgloffMeiko 本年中はいろいろとお世話になりました。ありがとうございました。
お健やかに新年をお迎えになることをお祈りいたします。
来年もご指導、宜しくお願い申し上げます。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうなんですよね。
未来志向の話とともに、日本人特有の「恨みを水に流す」という感情がうまく機能したと考えられます。
このあたりが外国とは違うところですね。
EgloffMeikoさんへ
黒田裕樹 こちらこそお世話になりました。
来年もよろしくお願いいたします。
庄屋として村の行政に携わっていましたから、村民同士の利害関係の処理やお上との交渉など、長けていたはずですね。
でも当時は、なかなかそういう発想にならなかったんでしょうね。
そして不可能と思われた薩長同盟を締結に持っていくのは、経済を最優先にしながら、まさに複雑なパズルを合わせながら、針の穴に糸を通すような緻密な根気のいる作業じゃなかったんでしょうか。
龍馬と中岡の両人が手を携えてこそ、薩長同盟が成り立ったといえると思います。
発想だけでなく、実行力も必要ということですね。
お互いの過去には一切触れず
現在の両藩の思惑に着眼し、
未来志向の話をぶつけていった訳ですね。
応援凸
お健やかに新年をお迎えになることをお祈りいたします。
来年もご指導、宜しくお願い申し上げます。
未来志向の話とともに、日本人特有の「恨みを水に流す」という感情がうまく機能したと考えられます。
このあたりが外国とは違うところですね。
来年もよろしくお願いいたします。