1862年、島津久光は朝廷の勅使(ちょくし、天皇の使者のこと)とともに江戸へ向かい、幕政の改革を要求しました。この意向を受け、幕府は一橋慶喜を将軍後見職(しょうぐんこうけいしょく)に、松平慶永を政事総裁職(せいじそうさいしょく)に、会津藩主(あいづはんしゅ)の松平容保(まつだいらかたもり)を新設の京都守護職(きょうとしゅごしょく)に任じました。
この他、幕府は同時に参勤交代(さんきんこうたい)を三年に一回に縮小(しゅくしょう)したり、大名の妻の帰国を認めたり、西洋式の軍制を採用したりしました。これらの改革は当時の年号から文久の改革(ぶんきゅうのかいかく)と呼ばれています。
さて、これらの改革の中で特に不思議なのは京都守護職です。なぜなら、そもそも京都には京都所司代(きょうとしょしだい)という別の役職が存在していたからです。それなのに、なぜわざわざ京都守護職を設けなければならなかったのでしょうか。




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ぴーち こんにちは!
>なぜわざわざ京都守護職を設けなければならなかったのでしょうか。
全く見当もつきません・・・(^_^;)
明日の記事に答えがあるんですか?
是非、楽しみにしています^^
応援凸
幕府の弱体化
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
この文久の改革は、危機的状況ですね。
というのも、この改革は、幕府内部ではなく
薩摩藩の進言によるものであることが驚きです。
薩摩藩が、いくら、財政改革に
成功したと言えども
外様大名のたかが60万石です。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 明日の記事に答えがあるんですか?
> 是非、楽しみにしています^^
もちろん回答しますよ(^^♪
明日もぜひお越し下さいm(_ _)m
青田さんへ
黒田裕樹 当時の薩摩藩は篤姫(天璋院)によって幕府とは縁戚であったことが大きいですね。
それ以前に幕府が諸藩の意見を聞くまでに弱体化していたこともありますが。
武家政権に協調は有り得ないということなのでしょう。
今の政治
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
今の政治のように地方から、中央を変えるというのは、
面白いですね。
◆ 中央の朝廷にたいして、鎌倉といういわば
地方から、政治を変えた源頼朝
◆ そして、幕末。。。
ネタバレにならないように、ココで、止めておきますね。
もちろん、国政は、大事ですが
個人的には、東京(国の政治)よりも、地方都市が頑張ることで
今の日本を元気にして欲しいと思うように最近、なりました。
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かにそうですね。
さしあたっては私が住む大阪に期待でしょうか…。
薩摩藩
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
やはり、薩摩藩は、江戸幕府が初期の段階で
潰しておけば、こういうことには、成らなかった気がします。
江戸時代、創業期に親藩、譜代、外様の大大名を
難癖をつけて、取り潰しましたが、
島津だけは、アンタッチャブルでした。
たとえば
それどころか、一国一城令を無視した外城制で
鶴丸城を囲んで、外城が113もありました。
→ 福島正則の城の無断改築どころではない
武家諸発度違反です。
これは、結果論ですが、徳川家康時代は、仕方ないにしろ、
秀忠、家光時代にどんな汚い手を使っても
薩摩藩を潰しておくべきだったと思います。
考えられる理由として
(1) 見えないところで、潰そうと画策したが、結局、薩摩藩のほうが一枚も二枚も上手だった。
(2) 逆に太平な時代が進んで、他の武断派大名が
弱っていくのに、薩摩藩だけは、最強軍団の様相だったので、江戸幕府も手を出したくなかった。
島津攻めは、大阪の陣どころではないほど、難しいと考えた。
と考えました。
あれだけ、完璧主義で、少しでも、危険な芽を摘んでおく、徳川家康の失策ではないでしょうか。
(自分の代では、無理にしても)
オバrev これはもう幕府の権力が地に落ちたことを世に晒してしまいますね。
京都所司代と京都守護職の2重行政のように見えますが、役割が違うからじゃないでしょうか?
青田さんへ その3
黒田裕樹 昨年の11月の第20回歴史講座でも紹介しておりますが、家康は薩摩藩を潰したくても潰せなかったんですよね。
その後も隠密を何度も薩摩へ送りながら、生きて帰ってくることはなかったという話ですし。
当時の日本の一番南で、江戸幕府の監視の目が最も届きにくかったという地理的環境もあったのでしょう。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > これはもう幕府の権力が地に落ちたことを世に晒してしまいますね。
全くそのとおりです。外様の一大名の言うことを幕府が聞く、という段階で事実上終わっていますね。
> 京都所司代と京都守護職の2重行政のように見えますが、役割が違うからじゃないでしょうか?
確かに厳密に言えば役割が違いますが、そもそもは京都所司代でカバーできるはずなのです。設立当初ならば…。
歴史のif
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
島津斉彬は、非常に開明的な名君でしたが、
島津久光で、かなり、薩摩は、無駄なエネルギーを費やしたと思います。
◆ 西郷の島流し。
◆ 薩英戦争
など。。
もし、島津斉彬が、死なずに長生きしたとします。
すると、日本は、もっと早く、明治維新を迎えれたと思われるのですが、いかがでしょうか。
青田さんへ その4
黒田裕樹 島津斉彬は確かに名君ですし、彼の努力によって薩摩藩が幕末に活躍した、というのは間違いありません。
ただし、井伊直弼が将軍継嗣問題で一方的に徳川慶福(=徳川家茂)を次期将軍に決定したことに抗議する意味で藩兵を率いて上洛する計画を考えていたとされており、これが実現すれば幕末の流れが大きく変わっていたでしょう。
幕末には様々な人間の登場や退場があるため一概には言えませんが、斉彬が生きていれば明治維新は全く別の形で迎えることになったかもしれませんね。私には予測もつきません。
>なぜわざわざ京都守護職を設けなければならなかったのでしょうか。
全く見当もつきません・・・(^_^;)
明日の記事に答えがあるんですか?
是非、楽しみにしています^^
応援凸
こんにちは
青田です。
この文久の改革は、危機的状況ですね。
というのも、この改革は、幕府内部ではなく
薩摩藩の進言によるものであることが驚きです。
薩摩藩が、いくら、財政改革に
成功したと言えども
外様大名のたかが60万石です。
> 是非、楽しみにしています^^
もちろん回答しますよ(^^♪
明日もぜひお越し下さいm(_ _)m
それ以前に幕府が諸藩の意見を聞くまでに弱体化していたこともありますが。
武家政権に協調は有り得ないということなのでしょう。
こんばんは
青田です。
今の政治のように地方から、中央を変えるというのは、
面白いですね。
◆ 中央の朝廷にたいして、鎌倉といういわば
地方から、政治を変えた源頼朝
◆ そして、幕末。。。
ネタバレにならないように、ココで、止めておきますね。
もちろん、国政は、大事ですが
個人的には、東京(国の政治)よりも、地方都市が頑張ることで
今の日本を元気にして欲しいと思うように最近、なりました。
さしあたっては私が住む大阪に期待でしょうか…。
こんばんは
青田です。
やはり、薩摩藩は、江戸幕府が初期の段階で
潰しておけば、こういうことには、成らなかった気がします。
江戸時代、創業期に親藩、譜代、外様の大大名を
難癖をつけて、取り潰しましたが、
島津だけは、アンタッチャブルでした。
たとえば
それどころか、一国一城令を無視した外城制で
鶴丸城を囲んで、外城が113もありました。
→ 福島正則の城の無断改築どころではない
武家諸発度違反です。
これは、結果論ですが、徳川家康時代は、仕方ないにしろ、
秀忠、家光時代にどんな汚い手を使っても
薩摩藩を潰しておくべきだったと思います。
考えられる理由として
(1) 見えないところで、潰そうと画策したが、結局、薩摩藩のほうが一枚も二枚も上手だった。
(2) 逆に太平な時代が進んで、他の武断派大名が
弱っていくのに、薩摩藩だけは、最強軍団の様相だったので、江戸幕府も手を出したくなかった。
島津攻めは、大阪の陣どころではないほど、難しいと考えた。
と考えました。
あれだけ、完璧主義で、少しでも、危険な芽を摘んでおく、徳川家康の失策ではないでしょうか。
(自分の代では、無理にしても)
京都所司代と京都守護職の2重行政のように見えますが、役割が違うからじゃないでしょうか?
その後も隠密を何度も薩摩へ送りながら、生きて帰ってくることはなかったという話ですし。
当時の日本の一番南で、江戸幕府の監視の目が最も届きにくかったという地理的環境もあったのでしょう。
全くそのとおりです。外様の一大名の言うことを幕府が聞く、という段階で事実上終わっていますね。
> 京都所司代と京都守護職の2重行政のように見えますが、役割が違うからじゃないでしょうか?
確かに厳密に言えば役割が違いますが、そもそもは京都所司代でカバーできるはずなのです。設立当初ならば…。
こんにちは
青田です。
島津斉彬は、非常に開明的な名君でしたが、
島津久光で、かなり、薩摩は、無駄なエネルギーを費やしたと思います。
◆ 西郷の島流し。
◆ 薩英戦争
など。。
もし、島津斉彬が、死なずに長生きしたとします。
すると、日本は、もっと早く、明治維新を迎えれたと思われるのですが、いかがでしょうか。
ただし、井伊直弼が将軍継嗣問題で一方的に徳川慶福(=徳川家茂)を次期将軍に決定したことに抗議する意味で藩兵を率いて上洛する計画を考えていたとされており、これが実現すれば幕末の流れが大きく変わっていたでしょう。
幕末には様々な人間の登場や退場があるため一概には言えませんが、斉彬が生きていれば明治維新は全く別の形で迎えることになったかもしれませんね。私には予測もつきません。