なぜなら、諸藩の意見を重視するという行為は、幕府の政策に対して口出しすることを事実上認めることだからです。また、幕府は意見をまとめて朝廷に報告も行いましたが、これは幕府の権威(けんい)だけではもはや国論(こくろん)をまとめることが出来ないことを自(みずか)ら証明したと同時に、朝廷の権威を高めることにもつながってしまいました。
さて、幕府は対外的危機を回避(かいひ)するために、老中の阿部正弘が前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)や越前(えちぜん)藩主の松平慶永(まつだいらよしなが)・薩摩藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)・宇和島(うわじま)藩主の伊達宗城(だてむねなり)、あるいは幕臣(ばくしん)の川路聖謨(かわじとしあきら)らの人材を登用しました。
また、国防を充実(じゅうじつ)させる目的から江戸湾(えどわん)に砲台(ほうだい)となる台場(だいば)を築いたほか、長崎に海軍の教育機関である海軍伝習所(かいぐんでんしゅうじょ)を、江戸には蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)を改編した洋学研究教育機関である蕃書調所(ばんしょしらべしょ)などを設(もう)けました。
阿部正弘によるこれらの改革は安政の改革(あんせいのかいかく)とも呼ばれます。なお、江戸湾の台場は幕府に敬意を払(はら)って「お台場」と呼ばれ、現代の地名にも残っています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




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晴雨堂ミカエル 本来は国家元首を戴く国家の政庁たる朝廷も有名無実、家康当時は世界最強最大の軍隊だった幕府もハリボテ状態。
痛快ですね。
ところで、この当時の加賀藩は幕府にとってどのような存在でしょうか? 名前が出てきません。
幕藩体制では、極官が従三位参議、江戸城の控えは徳川御三家と同じ大廊下、外様でありながら親戚扱い(実際外戚ですが)の大藩なのに、水戸のような活躍は無し。
ミニ幕府状態でしょうか?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 加賀藩は当初は佐幕派であり、藩主の前田斉泰(まえだなりやす)が藩内の尊王攘夷派を弾圧していましたが、大政奉還後はそれが仇になって人材がおらず、出遅れてしまったのが原因のようですね。
予測がつかない幕末とはいえ、藩主の責任は重いです。
オバrev 外交能力がないというのは厳しいですね。
まさに今の民主党そのものです(^_^;)
歴史は繰り返すと言いますが、この幕末の時代の激変と現代の時代の激変への対応も、また歴史の繰り返しとなるんでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 現代の件も含めて私も同意見です。
幕末の大混乱の時代の繰り返しは大変な世の中ですから、同じことの繰り返しは何としても願い下げといきたいのですが…。
質問
ろっぽん 幕府は対外的危機を回避(かいひ)するために、老中の阿部正弘が前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)や越前(えちぜん)藩主の松平慶永(まつだいらよしなが)・薩摩藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)・宇和島(うわじま)藩主の伊達宗城(だてむねなり)、あるいは幕臣(ばくしん)の川路聖謨(かわじとしあきら)らの人材を登用しました。
と記してますが、何に登用したのですか?
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 徳川斉昭らの大名クラスは幕政参与として自由に意見が言えるようにしました。川路聖謨は勘定奉行の公事方から勝手方に異動し、その後も様々な業務を兼任して手腕を発揮しています。
痛快ですね。
ところで、この当時の加賀藩は幕府にとってどのような存在でしょうか? 名前が出てきません。
幕藩体制では、極官が従三位参議、江戸城の控えは徳川御三家と同じ大廊下、外様でありながら親戚扱い(実際外戚ですが)の大藩なのに、水戸のような活躍は無し。
ミニ幕府状態でしょうか?
予測がつかない幕末とはいえ、藩主の責任は重いです。
まさに今の民主党そのものです(^_^;)
歴史は繰り返すと言いますが、この幕末の時代の激変と現代の時代の激変への対応も、また歴史の繰り返しとなるんでしょうか?
幕末の大混乱の時代の繰り返しは大変な世の中ですから、同じことの繰り返しは何としても願い下げといきたいのですが…。
と記してますが、何に登用したのですか?