江戸幕府とロシアのプチャーチンとの間で日露和親条約(にちろわしんじょうやく)が結ばれたのは1854年12月(ただし旧暦。新暦では1855年2月)ですが、他国の同様の条約との大きな違(ちが)いは、日露両国の国境の確定でした。
すなわち、両国周辺の島について、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地(ざっきょち)とした一方で、千島列島(ちしまれっとう)は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領としました。
その後、明治8(1875)年の樺太・千島交換条約で樺太はロシア領、千島列島全部は日本領と変更されましたが、日露和親条約という両国にとって史上初めての国際条約で択捉島・得撫島間を国境と定めたことが、択捉島・国後島(くなしりとう)・歯舞諸島(はぼまいしょとう)・色丹島(しこたんとう)のいわゆる北方領土(ほっぽうりょうど)が我が国固有の領土であると日本が主張する大きな根拠(こんきょ)となっているのです。
なお、日露和親条約が結ばれた日を新暦に直した2月7日は、我が国で「北方領土の日」と定められています。




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