水野はかつての享保(きょうほう)・寛政(かんせい)の両改革を手本とし、衰(おとろ)えつつあった江戸幕府の権力強化を目指して改革を行ったのですが、その手法は先の両改革よりも過激(かげき)なものであり、結果として庶民の暮(く)らしは大きな打撃(だげき)を受けることになりました。
まず水野は将軍や大奥(おおおく)も含めた非常に厳しい倹約令(けんやくれい)を出し、ぜいたく品や華美(かび)な衣服を禁じました。ここまでは前の改革とはそれほど大きな差はありませんが、問題なのはその「陰湿(いんしつ)さ」でした。
幕府の意を受けた南町奉行所(みなみまちぶぎょうしょ)では、町に密偵(みってい)を放(はな)って幕府の政治に対する悪口を言わせて、それに乗ってきた庶民を「幕府を批判した」と言って捕まえたり、倹約令によって禁止されていた絹(きぬ)の着物を着ている疑いがあるとして、往来の真ん中で女性を無理やり裸(はだか)にしたりしたのです。
これら一連のやり口を指揮(しき)した人物こそが、先の蛮社の獄(ばんしゃのごく)を取り締(し)まった南町奉行の鳥居耀蔵(とりいようぞう)であり、もう一人の北町(きたまち)奉行で、水野や鳥居とやがて対立することになる人物が「遠山の金さん」で有名な遠山景元(とおやまかげもと)でした。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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広島人 先生こんにちは。
初めてコメント致します。
「往来の真ん中で女性を無理やり裸(はだか)にした」とありますが、
これは着物の下の襦袢も剥ぎ取って、文字通り裸にしたのでしょうか?
広島人さんへ
黒田裕樹 はじめまして。当ブログへのご訪問並びにお言葉有難うございます。
> 「往来の真ん中で女性を無理やり裸(はだか)にした」とありますが、
> これは着物の下の襦袢も剥ぎ取って、文字通り裸にしたのでしょうか?
詳しくは私も存じ上げませんが、当時は襦袢姿でも非常に恥辱であったといいますし、絹の着物を脱がすのが目的であれば、襦袢姿で止めた可能性もあると思われます。
天保の改革
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
どうも、幕府は、『吉宗』をカリスマ化しすぎて
それが、幕府の衰退を速めた気がします。
その原因として
吉宗の血のセーフティーネットの御三卿の中から、将軍が出続け、さらに吉宗にたいする尊敬の念が強くなってしまったからではないかと思います。(まさか、自分の祖父にたいして、否定的な考えを持つことはできませんから)
それゆえ、
寛政の改革、天保の改革とも吉宗の享保の
改革の模倣か、その政策をさらに拡大させたものになった気がします。
ちなみに
江戸時代、人口は、増加していますが、吉宗の享保の改革から、幕末まで、人口増加率は、横ばいを続けています。
個人的なイメージですが、暗黒の時代ですね。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに吉宗を神格化しているようですね。
将軍が吉宗の血をみんな引いているのも原因がありそうです。
人口停滞は必ずしも不幸な時代とは限りませんが、天保の改革の失敗が尾を引いていますね。
初めてコメント致します。
「往来の真ん中で女性を無理やり裸(はだか)にした」とありますが、
これは着物の下の襦袢も剥ぎ取って、文字通り裸にしたのでしょうか?
> 「往来の真ん中で女性を無理やり裸(はだか)にした」とありますが、
> これは着物の下の襦袢も剥ぎ取って、文字通り裸にしたのでしょうか?
詳しくは私も存じ上げませんが、当時は襦袢姿でも非常に恥辱であったといいますし、絹の着物を脱がすのが目的であれば、襦袢姿で止めた可能性もあると思われます。
こんばんは
青田です。
どうも、幕府は、『吉宗』をカリスマ化しすぎて
それが、幕府の衰退を速めた気がします。
その原因として
吉宗の血のセーフティーネットの御三卿の中から、将軍が出続け、さらに吉宗にたいする尊敬の念が強くなってしまったからではないかと思います。(まさか、自分の祖父にたいして、否定的な考えを持つことはできませんから)
それゆえ、
寛政の改革、天保の改革とも吉宗の享保の
改革の模倣か、その政策をさらに拡大させたものになった気がします。
ちなみに
江戸時代、人口は、増加していますが、吉宗の享保の改革から、幕末まで、人口増加率は、横ばいを続けています。
個人的なイメージですが、暗黒の時代ですね。
将軍が吉宗の血をみんな引いているのも原因がありそうです。
人口停滞は必ずしも不幸な時代とは限りませんが、天保の改革の失敗が尾を引いていますね。