徳川家康(とくがわいえやす)が朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて江戸幕府(えどばくふ)を開くと、家康は朝廷への支配を強化するため、1615年に禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定しました。
諸法度の制定の際に徳川氏が何よりも気を配ったのが、幕府の皇室に対する影響力を強めようとしたことでした。その手段として幕府は摂関家の地位を高め、天皇の子である親王(しんのう)よりも上位と定めました。
また、幕府は将軍の正室(せいしつ、いわゆる本妻のこと)を摂関家から迎えるなど関係を強化することで、摂関家を通じて朝廷を幕府の意のままにコントロールしようとしたのです。
こうした幕府の姿勢によって、摂関家は政治の実権こそ失われていたものの、幕府とは比較的友好関係を築(きず)くとともに、朝廷での地位を高めることになりました。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
やはり世に名を残す様な人物は、「先見の明」に長けていたんですね。この様なお話を伺っていると
先々の事を考えて、先手必勝とばかりに尽く手を打っていった事に改めて気付かされますね(^^ゞ
応援凸
家康の深謀。
晴雨堂ミカエル 豊臣政権はハク付けは豪華でしたね。身内に摂政を譲って豊臣一門の摂政関白の世襲を確立をはかり、主要家臣も内大臣や大納言を独占、公家たちはポストが無くなって意気消沈だったことでしょう。
家康は朝廷を支配すると同時に権威は譲った形ですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。家康が徳川家のために行った政策によって、朝廷をしっかりコントロールすることに成功しました。
言葉は良くないですが、五摂家はそのおこぼれにあずかった感がありますね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 豊臣政権がハク付けにこだわったのは、自らの身分の低さへのコンプレックスだったのかもしれませんね。ただ、やりすぎたことによって公卿との関係が悪化した可能性もあります。
家康は朝廷に権威をあずけたほうが自己の政権が長持ちすることを、歴史に学んで理解していたのでしょう。
やはり世に名を残す様な人物は、「先見の明」に長けていたんですね。この様なお話を伺っていると
先々の事を考えて、先手必勝とばかりに尽く手を打っていった事に改めて気付かされますね(^^ゞ
応援凸
家康は朝廷を支配すると同時に権威は譲った形ですね。
言葉は良くないですが、五摂家はそのおこぼれにあずかった感がありますね。
家康は朝廷に権威をあずけたほうが自己の政権が長持ちすることを、歴史に学んで理解していたのでしょう。