足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)の養子になろうとして断られたとも伝えられる秀吉は、自身の弱点を補(おぎな)うために皇室の威光(いこう)を利用しようと考えました。つまり、自らが関白となり、天皇に代わって政治を行おうとしたのです。
しかし、関白は五摂家が交代で就任することになっていました。このため、秀吉は五摂家の一つである近衛家の養子となり、1585年に藤原秀吉(ふじわらのひでよし)として関白に就任しました。
さらに翌1586年には朝廷から新しい姓である豊臣(とよとみ)を賜(たまわ)り、豊臣秀吉と名乗りました。つまり、秀吉は「羽柴」という苗字はそのままで、藤原から豊臣へと改姓したことになります。
なお、豊臣氏は姓であることから、豊臣秀吉の呼び方は「とよとみひでよし」ではなく「とよとみのひでよし」が正しい、という考えもあるようです。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
私は「羽柴」→「豊臣」としか認識しておりませんでした(^^ゞ
その間に「藤原」が存在していたのは存じませんでしたのでまた一つ勉強になりましたm(_ _)m
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 私は「羽柴」→「豊臣」としか認識しておりませんでした(^^ゞ
> その間に「藤原」が存在していたのは存じませんでしたのでまた一つ勉強になりましたm(_ _)m
有難うございます。この事実は意外と知られていないんですよね。
身分の低い秀吉が出世するには、まず近衛家の養子になることが必要でした。しかし、一旦なってしまった後には養子にならずとも新たな家を立てれば良かったと思われます。
私は「羽柴」→「豊臣」としか認識しておりませんでした(^^ゞ
その間に「藤原」が存在していたのは存じませんでしたのでまた一つ勉強になりましたm(_ _)m
応援凸
> その間に「藤原」が存在していたのは存じませんでしたのでまた一つ勉強になりましたm(_ _)m
有難うございます。この事実は意外と知られていないんですよね。
身分の低い秀吉が出世するには、まず近衛家の養子になることが必要でした。しかし、一旦なってしまった後には養子にならずとも新たな家を立てれば良かったと思われます。