道長は4人の娘を天皇の后として自らは摂政となり、約30年にわたって権力を握り続けました。彼が絶頂の頃に詠(よ)んだとされる「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌はあまりにも有名ですね。
道長によって全盛期を迎えた藤原氏の権力は、子の藤原頼通にそのまま引き継(つ)がれました。始めは摂政、やがて関白となった頼通は、約50年に渡って政治の実権を握り続けました。
このように10世紀後半から11世紀後半にかけて、藤原氏が摂政や関白を独占して行った政治のことを摂関政治(せっかんせいじ)といい、摂政や関白を出した家柄(いえがら)のことを摂関家(せっかんけ)といいます。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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晴雨堂ミカエル どちらかなのか、二人ともなのか、糖尿病を患っていたとの話を聞いた事があります。
いくら贅沢三昧だったとしても、当時の摂取カロリーは現代人より少なかったはず、余程の運動不足か、当時の体質は高カロリーに対応していなかったのでしょう。
ふと思ったのは、束帯姿を連想する道長ですが、実際は奈良時代の朝服に近いデザインだったみたいですね。直衣みたいなのはあったらしいが、束帯は源平合戦の頃辺りに確立。道長の時代はまだ朝服に近く、石帯もまだバックルが付いていたらしい。
ところで、我家の家紋は丸に扇です。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 道長は糖尿病患者としても有名なようですね。それだけ贅沢な暮らしをしていて、仰るように体質上の問題があったのでしょうか。
国風文化が華やかになった平安中期と言えども、今しばらくは中国の影響を受け続けていたのかもしれませんね。
ぴーち こんばんは!
外敵が誰もいなくなると、今度は内々での骨肉の争うですか・・(^^ゞ
なんとも浅ましいものを感じますね・・
それでもそれによって内乱が治まり、国内が安定して行ったのなら、それはそれで仕方が無い事だったのでしょうか・・・
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに浅ましく見えますね。
この争いはあくまでも宮中での出来事でした。今回は詳しく紹介しませんが、こうしている間に地方の風紀は乱れに乱れまくったのです…。いずれ機会があれば詳しく紹介したいですね。
いくら贅沢三昧だったとしても、当時の摂取カロリーは現代人より少なかったはず、余程の運動不足か、当時の体質は高カロリーに対応していなかったのでしょう。
ふと思ったのは、束帯姿を連想する道長ですが、実際は奈良時代の朝服に近いデザインだったみたいですね。直衣みたいなのはあったらしいが、束帯は源平合戦の頃辺りに確立。道長の時代はまだ朝服に近く、石帯もまだバックルが付いていたらしい。
ところで、我家の家紋は丸に扇です。
国風文化が華やかになった平安中期と言えども、今しばらくは中国の影響を受け続けていたのかもしれませんね。
外敵が誰もいなくなると、今度は内々での骨肉の争うですか・・(^^ゞ
なんとも浅ましいものを感じますね・・
それでもそれによって内乱が治まり、国内が安定して行ったのなら、それはそれで仕方が無い事だったのでしょうか・・・
応援凸
この争いはあくまでも宮中での出来事でした。今回は詳しく紹介しませんが、こうしている間に地方の風紀は乱れに乱れまくったのです…。いずれ機会があれば詳しく紹介したいですね。