さらに良房の養子の藤原基経(ふじわらのもとつね)が884年に関白(かんぱく、天皇の成人後に政治を代行する職のこと)に任じられ、藤原氏はますますその権力を強めることになりました。
その後、菅原道真(すがわらのみちざね)が重用されて藤原氏の勢力が一時は弱まりましたが、901年に道真をウソの密告(みっこく)で陥(おとしい)れ、大宰権帥(だざいごんのそち)へと左遷(させん)させました。この事件は昌泰の変(しょうたいのへん)と呼ばれています。
こうして他家に対する容赦(ようしゃ)ない謀略(ぼうりゃく)を続けた藤原氏でしたが、969年に源高明(みなもとのたかあきら)を謀反の罪で大宰府へ流すという安和の変(あんなのへん)を起こすと、藤原氏に対抗できる他氏勢力がついに存在しなくなり、以後は藤原氏が摂政や関白を独占(どくせん)することになりました。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
やはり一代で財を成すと言う偉業の裏では
その為に命を奪われたり、地位から蹴落とされたり、泣かされる人も大勢いるという事でしょうね。
いわゆる藤原氏にとって、道真は目の上のたんこぶ的な存在だけで、道真自身には何一つ落ち度が無かったのでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ながら、綺麗事だけでは人間は生きてはいけませんからね。もっとも、藤原氏と言えども永遠に勢力を拡大というわけにもいかなかったのですが…。
> いわゆる藤原氏にとって、道真は目の上のたんこぶ的な存在だけで、道真自身には何一つ落ち度が無かったのでしょうか。
道真は優秀な人間でしたから、それゆえに藤原氏は無実の罪で彼を追放しました。ところが世の中というのは分からないもので、道真の死後に我が国では不穏な出来事が立て続けに起こって、道真のタタリが起きたとして朝廷は彼の名誉を回復し、神様として祀(まつ)ることになります。
そして、これこそが天満宮の由来でもあるんですよね。
太宰府。
晴雨堂ミカエル もともと太宰府帥は三位以上の名誉ある高官なのに、道真の一件で権帥は左遷というより大臣の流刑ポストになってしまいましたね。
道真は太宰府の仕事はせず、殆んど軟禁状態だったとか。
因みに私は菅原道真の末裔だと祖母が言っていましたが、果して?
名字に「菅」の字が入っていれば、若干の説得力がありますが、ありませんから。
藤原の末裔という場合もありますが、これはあり得そうです。藤原家は繁栄した一族で分家や庶流は数えきれない。また私の一族は少なくとも数百年まで遡れる古い家ですので、可能性はあるでしょう。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、道真の存在が大宰府の印象を悪くしてしまいましたね。海外への玄関口となる重要なポストのはずだったのですが。
家系というのは色々ありますよね。私の家の家紋は「丸に下がり藤」ですから藤原氏の末裔と言えそうですが、皇室のようにはっきりとした系図が残っていない以上、私の場合は信用できそうもありません。
オバrev 太宰府天満宮へは、長男の中学受験と大学受験の時に行きました・・・次男と長女の時に行ってないのは内緒(^_^;)
その後長男が福岡の大学に通うことになり、また行きました。
しかし菅原道真は、まあ無念だったでしょうね。
しかしまさに藤原氏盤石の構えですね。他の勢力は手も足も出ないって感じでしょうか?
オバrevさんへ
黒田裕樹 私は残念ながら太宰府へは行ったことがありません(´・ω・`)
九州地方にも滅多にいかないのですが、チャンスがあればみずほやさくらを利用したいですね。
道真や源高明の追放に成功した後は、藤原氏を出し抜こうという勢力は現れず、逆にそのおこぼれにあずかろうとしたようですね。まさに日の出の勢い、いや満月といった方がいいでしょうか(^^ゞ
よくわかりませんが
ろっぽん 藤原というのは、皇族でないとすると
貴族なんですかまた、平泉の藤原一族とは関係がないのですかこのへんが学校時代からよく理解してませんでした。
ろっぽんさんへ
黒田裕樹 藤原氏は豪族出身の貴族と言えますね。出自についてはいずれブログで紹介することになります。
なお、奥州藤原氏は俵藤太(=藤原秀郷)の子孫とされていますが、藤原秀郷自身も含めて藤原氏とのつながりには疑問の声もあるようです。
やはり一代で財を成すと言う偉業の裏では
その為に命を奪われたり、地位から蹴落とされたり、泣かされる人も大勢いるという事でしょうね。
いわゆる藤原氏にとって、道真は目の上のたんこぶ的な存在だけで、道真自身には何一つ落ち度が無かったのでしょうか。
応援凸
> いわゆる藤原氏にとって、道真は目の上のたんこぶ的な存在だけで、道真自身には何一つ落ち度が無かったのでしょうか。
道真は優秀な人間でしたから、それゆえに藤原氏は無実の罪で彼を追放しました。ところが世の中というのは分からないもので、道真の死後に我が国では不穏な出来事が立て続けに起こって、道真のタタリが起きたとして朝廷は彼の名誉を回復し、神様として祀(まつ)ることになります。
そして、これこそが天満宮の由来でもあるんですよね。
道真は太宰府の仕事はせず、殆んど軟禁状態だったとか。
因みに私は菅原道真の末裔だと祖母が言っていましたが、果して?
名字に「菅」の字が入っていれば、若干の説得力がありますが、ありませんから。
藤原の末裔という場合もありますが、これはあり得そうです。藤原家は繁栄した一族で分家や庶流は数えきれない。また私の一族は少なくとも数百年まで遡れる古い家ですので、可能性はあるでしょう。
家系というのは色々ありますよね。私の家の家紋は「丸に下がり藤」ですから藤原氏の末裔と言えそうですが、皇室のようにはっきりとした系図が残っていない以上、私の場合は信用できそうもありません。
その後長男が福岡の大学に通うことになり、また行きました。
しかし菅原道真は、まあ無念だったでしょうね。
しかしまさに藤原氏盤石の構えですね。他の勢力は手も足も出ないって感じでしょうか?
九州地方にも滅多にいかないのですが、チャンスがあればみずほやさくらを利用したいですね。
道真や源高明の追放に成功した後は、藤原氏を出し抜こうという勢力は現れず、逆にそのおこぼれにあずかろうとしたようですね。まさに日の出の勢い、いや満月といった方がいいでしょうか(^^ゞ
貴族なんですかまた、平泉の藤原一族とは関係がないのですかこのへんが学校時代からよく理解してませんでした。
なお、奥州藤原氏は俵藤太(=藤原秀郷)の子孫とされていますが、藤原秀郷自身も含めて藤原氏とのつながりには疑問の声もあるようです。