恵美押勝は天皇に準ずる権力を持つまでに出世しましたが、朝廷の官職(かんしょく)を中国風に改めたり、外交に関する強引な姿勢(しせい)を見せたりすることで次第に周囲の反感を買うようになっていきました。
こうした中で、最大の後ろ盾(だて)であった光明皇太后が760年に死去して、孝謙上皇が自らの病を祈祷(きとう)で治した僧の道鏡(どうきょう)とともに政治の表舞台に再び登場すると、恵美押勝の勢力は急速に衰えていきました。
焦(あせ)った恵美押勝は道鏡を追放して孝謙上皇の権力を抑(おさ)えようと764年に反乱を企(くわだ)てましたが事前に発覚し、逆に攻められて滅ぼされました。また、恵美押勝と関係の深かった淳仁天皇は孝謙上皇によって廃位(はいい)となり、淡路(あわじ、現在の兵庫県淡路島)に追放されてしまいました。この事件を恵美押勝の乱といいます。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんにちは!
恵美押勝は、中国の文化や、海外に興味を持っていた方だったのですね。この頃というのは、外国の文化を容易く容認出来ない風潮が国内にあったのですか?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 この当時は国内文化が発展途上だったので、唐のような(当時の)先進文化を受け入れる余地はありました。しかし、恵美押勝の場合はあまりにも中国べったりだったことで「やり過ぎ」と思われた節がありますね。
外交にしても下手をすれば大国である唐を敵に回しかねず、そんな危うさがあったところに孝謙上皇や道鏡がつけ入る隙があったといったところでしょうか。
恵美押勝は、中国の文化や、海外に興味を持っていた方だったのですね。この頃というのは、外国の文化を容易く容認出来ない風潮が国内にあったのですか?
応援凸
外交にしても下手をすれば大国である唐を敵に回しかねず、そんな危うさがあったところに孝謙上皇や道鏡がつけ入る隙があったといったところでしょうか。