藤原四兄弟も同時に昇進し、再び藤原氏が政治の実権を握ることになりました。四兄弟は、武智麻呂が南家(なんけ)、房前が北家(ほっけ)、宇合が式家(しきけ)、麻呂が京家(きょうけ)のそれぞれの始祖(しそ)となりました。
まさに我が世の春を迎えた四兄弟でしたが、その繁栄(はんえい)は長くは続きませんでした。四兄弟には過酷(かこく)な運命が待っていたのです。
737年、九州地方から発生した疫病(えきびょう)である天然痘(てんねんとう)が、都の平城京(へいじょうきょう)でも大流行しました。藤原四兄弟も相次いで天然痘にかかり、何と全員がそろって病死してしまったのです。あまりの凶事(きょうじ)、そしてあまりの偶然(ぐうぜん)に、当時の朝廷は「長屋王のタタリが起こった」と恐怖(きょうふ)におびえました。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
まさしくそれは「祟り」としか言いようがない出来事ですね(^_^;)しかも4人揃ってなんて・・・(゚д゚)!
ゆめゆめ人を陥れる様な事は考える事なかれ。。という教訓の様なお話ですね(^^ゞ
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 偶然が重なったとはいえ、当時の人々は恐ろしかったと思います。まさに因果応報ですね。
オバrev これはもう、誰が見ても長屋王のタタリ以外考えられませんね。
まさに天国から地獄みたいなもんですね(・・;)
光明皇后は、4兄弟の死に対してどう考えたんでしょうか。
オバrevさんへ
黒田裕樹 > これはもう、誰が見ても長屋王のタタリ以外考えられませんね。
> まさに天国から地獄みたいなもんですね(・・;)
偶然にしてはあまりにも出来過ぎていますし、今となっては迷信に過ぎないことも当時は当たり前のように思われていましたからね。
> 光明皇后は、4兄弟の死に対してどう考えたんでしょうか。
正式な記録は残っていませんが、恐ろしかったと思います。ちなみに今回は藤原氏が中心なので紹介していませんが、長屋王のタタリが大仏建立にまでつながったのではないかと私は見ています。
なおまゆ おはようございます。
梅原猛氏が怨霊信仰について提唱されましたよね。長屋王は、その画期なのかもしれませんね。
当時の人は、ものすごい恐怖感だったと思います。今でさえ「祟り」という言葉は恐ろしい響きがあります。どうやってこの祟りを鎮めたんでしょうか?罪なくして陥れられた長屋王の怨念は凄まじいと人々は考えたでしょうね。確か、史書にも長屋王の無実は証明されてた記憶があります。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 この時期は政情不安の他に、疫病や不作による飢饉にも悩まされていました。これらが(無実であると認定したがゆえ、余計に)長屋王のタタリとされたことで、全国に国分寺や国分尼寺が建てられ、東大寺の大仏が建立されたのではないかと思われます。
まさしくそれは「祟り」としか言いようがない出来事ですね(^_^;)しかも4人揃ってなんて・・・(゚д゚)!
ゆめゆめ人を陥れる様な事は考える事なかれ。。という教訓の様なお話ですね(^^ゞ
応援凸
まさに天国から地獄みたいなもんですね(・・;)
光明皇后は、4兄弟の死に対してどう考えたんでしょうか。
> まさに天国から地獄みたいなもんですね(・・;)
偶然にしてはあまりにも出来過ぎていますし、今となっては迷信に過ぎないことも当時は当たり前のように思われていましたからね。
> 光明皇后は、4兄弟の死に対してどう考えたんでしょうか。
正式な記録は残っていませんが、恐ろしかったと思います。ちなみに今回は藤原氏が中心なので紹介していませんが、長屋王のタタリが大仏建立にまでつながったのではないかと私は見ています。
梅原猛氏が怨霊信仰について提唱されましたよね。長屋王は、その画期なのかもしれませんね。
当時の人は、ものすごい恐怖感だったと思います。今でさえ「祟り」という言葉は恐ろしい響きがあります。どうやってこの祟りを鎮めたんでしょうか?罪なくして陥れられた長屋王の怨念は凄まじいと人々は考えたでしょうね。確か、史書にも長屋王の無実は証明されてた記憶があります。