ところが、翌728年に皇子は1歳足らずで亡くなってしまったのです。聖武天皇や光明子、そして四兄弟にとっても大きなショックでしたが、四兄弟は不幸を逆手(さかて)にとっての大きな陰謀(いんぼう)を計画しました。
悲しみに打ちひしがれた聖武天皇に対して「皇子が亡くなられたのは、長屋王がそうなるように呪(のろ)ったからだ」と事実無根の噂(うわさ)を広めたのです。我が子を亡くして精神的に弱られていた聖武天皇は、結果としてこの讒言(ざんげん、他人をおとしいれるために事実でないことを告げ口すること)を信用されてしまいました。
729年2月、天皇に対する反逆(はんぎゃく)の罪で邸宅(ていたく)を軍勢(ぐんぜい)に取り囲まれた長屋王は自らの無実を訴(うった)えましたが、結局は一族とともに自殺しました。この事件を長屋王の変といいます。
(※下記の映像において系図などを詳しく書いておりますので、是非ご覧下さい。)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
人間の野望というのは恐ろしいものですね(^_^;)
火の無い所に煙は立たないと言いますけれど
火の無い所にも火を付けて、燃やしてしまう程の執念を感じますね( ´゚д゚`)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、確かに恐ろしいですね。
そして、無理を通して野望を達成した者には、それ相応の「報い」がやって来るのもまた恐ろしいところです。
詳しくは明日(7日)の更新をお待ち下さいm(_ _)m
なおまゆ ふと思ったのですが、この頃の為政者は『民』に対して何かしら救済をしていたのでしょうか?
寒冷期で飢饉にみまわれ多くの人が苦しい思いをしていたでしょうに・・・。
「善政を敷く」という言葉が似合わない時代ではありますが、其の点で何かしらの記録はあるのでしょうか?
なおまゆさんへ
黒田裕樹 確かに「善政」と言えるような資料は少ないですね。
ただ、光明皇后による「悲田院」や「施薬院」の設立という事実は残されており、何らかの救済は行なわれていたのは間違いないようです。
人間の野望というのは恐ろしいものですね(^_^;)
火の無い所に煙は立たないと言いますけれど
火の無い所にも火を付けて、燃やしてしまう程の執念を感じますね( ´゚д゚`)
応援凸
そして、無理を通して野望を達成した者には、それ相応の「報い」がやって来るのもまた恐ろしいところです。
詳しくは明日(7日)の更新をお待ち下さいm(_ _)m
寒冷期で飢饉にみまわれ多くの人が苦しい思いをしていたでしょうに・・・。
「善政を敷く」という言葉が似合わない時代ではありますが、其の点で何かしらの記録はあるのでしょうか?
ただ、光明皇后による「悲田院」や「施薬院」の設立という事実は残されており、何らかの救済は行なわれていたのは間違いないようです。