大塩の決断には、陽明学における知行合一(ちこうごういつ)の精神、すなわち「知っていて行わないのは知らないことと同じだ」として実践(じっせん)を重視(じゅうし)する姿勢もあったからと考えられています。
大塩は反乱に向けて綿密(めんみつ)に計画を練(ね)りましたが、決起直前になって内通者(ないつうしゃ)が出てしまい、計画は奉行所にばれてしまいました。大塩は準備不足のまま反乱を強行しましたが、奉行所によって半日(はんにち)で鎮圧され、大塩も一度は逃走(とうそう)したものの、約40日後に自害しました。
1837年に起きたこの事件は大塩の乱と呼ばれていますが、幕府の元役人が幕政を批判(ひはん)して反乱を起こしたという事実が、幕府のみならず各方面に大きな衝撃(しょうげき)を与えることになりました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
お話から脱線して申し訳ありませんが、
「武装蜂起」と「武装放棄」では同じ読み方をするのに相反する意味を持つという・・面白いものだなとぼーっと考えてしましました(^^ゞすみません^^
なるほど、その事を知りつつも見てみぬふりをする事も、同罪だという理論は私も賛成です。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 言われてみれば確かにそうですね。発音も同じですし、ここまで正反対な言葉というのも珍しいのではないでしょうか。
陽明学の真髄は実践にありました。世間を騒がすことは確かに良くないですが、それ以前にどうしようもならなくなったからこその蜂起だったのでしょうね。
もし事前に発覚することなく、ある程度の成功を収めていれば、この後はどうなったのでしょうか…。
大塩も我々と歳頃は同じですね。
晴雨堂ミカエル 大塩平八郎の肖像画は老け顔に描かれていますが、たぶん我々とそう変わりないでしょう。生活水準は上の部類ですし、健康的な生活をしていたようですから。昔の絵師は威厳をもたせるために皺をよく強調します。
元与力で学者とはいえ、蔵書は万の数、当時の出版業界の規模(数百冊売れたらベストセラー)を考えれば大変な資産です。これらを売って困窮者の救済にあたったり、武器弾薬を購入して反乱軍を組織するのですから。
大塩がどこまで計画していたか判りませんが、予定通りの蜂起でも秩父困民党と同じ末路でしょう。
明治維新が早くなったという人もいますが、私は逆に幕府は効果的な弾圧法を編み出して芽を積んでしまった可能性をとります。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 大塩の乱がもたらした影響は様々なものが考えられますね。
確かに幕府が効果的な弾圧方法を考えたかもしれませんが、自助努力がない限りはどれだけ無理をしても結局は滅亡することも歴史が証明していますし、難しいところです。
なおまゆ お久しぶりです。
知行合一の陽明学は今の政治家の方々に是非学んでいただきたいですね。
明治維新のわずか30年前。
この後一気に情勢が動くんですよね。
尤も、維新後も庶民の生活はしばらく改善されなかったようですが、大塩平八郎氏が維新の時に存命であれば、赤報隊に加盟したでしょうか?
彼らは、官軍のスケープゴートにされて悲劇的な結末を迎え、悪名を着せられてしまいましたよね。
庶民のために立ち上がった大塩氏の勇気には敬服しています。
なおまゆさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、陽明学の知行合一は今こそ必要ではないかと思います。
明治維新かわずか30年前の話です。庶民のために散っていった大塩の精神は今もなお私たちに何かを語りかけているようですね。
わろ 窮民救済のために立ち上がった大塩さん、私も尊敬しています。日本人は、食うに困ると反乱するイメージがあります。
二二六事件も、東北飢饉を経験している東北出身の人が多く関与してたと聞いたことがあります。
ところで、このころの飢饉は、米価はどれくらいまで上がったのでしょうか??
わろさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、普段は大人しいものの、日本人は生命の危機を感じると大きな反乱を起こすことが多いです。それからでは遅すぎるともいえるのですが…。
米価については、飢饉の際には2倍~4倍に跳ね上がっている場合が多いですね。いずれにせよ、上がり過ぎては生活が成り立ちません。
オバrev 大塩平八郎を改めて再認識したのは、実はビートたけしのフライディ襲撃事件です(^◇^;)
愛人(一般人)に対するフライディの強引な取材に腹を立てたたけしが、軍団を率いてフライディを襲撃した事件ですが、その後の記者会見で「俺は大塩平八郎じゃない」と言ったのが頭に残っています。
事の真相は知りませんが、フライディの記者がその一般人女性に怪我を負わせるほどの、行き過ぎた取材?をしていて、ついに堪忍袋の尾が切れたたけしが、その記者に抗議に行ったもののノラリクラリのフライでディの対応に、ついに暴力事件へと発展したらしいです。
たけしが大塩平八郎じゃないと言ったのは、自分の愛人のために殴りこんだのであって、大義名分があった訳じゃないという意味だったんじゃないかと思います。
本日やっとたけしの言った意味が分かったような気がします(@_@;)
オバrevさんへ
黒田裕樹 ビートたけしのフライデー襲撃事件にはそんなエピソードがあったんですか。知らなかった、というよりも記憶になかったと言った方が正しいかもしれません。
大塩の乱と自らの行動をたちどころに結び付けようとするビートたけしは、やはり天才なのかもしれませんね。
お話から脱線して申し訳ありませんが、
「武装蜂起」と「武装放棄」では同じ読み方をするのに相反する意味を持つという・・面白いものだなとぼーっと考えてしましました(^^ゞすみません^^
なるほど、その事を知りつつも見てみぬふりをする事も、同罪だという理論は私も賛成です。
応援凸
陽明学の真髄は実践にありました。世間を騒がすことは確かに良くないですが、それ以前にどうしようもならなくなったからこその蜂起だったのでしょうね。
もし事前に発覚することなく、ある程度の成功を収めていれば、この後はどうなったのでしょうか…。
元与力で学者とはいえ、蔵書は万の数、当時の出版業界の規模(数百冊売れたらベストセラー)を考えれば大変な資産です。これらを売って困窮者の救済にあたったり、武器弾薬を購入して反乱軍を組織するのですから。
大塩がどこまで計画していたか判りませんが、予定通りの蜂起でも秩父困民党と同じ末路でしょう。
明治維新が早くなったという人もいますが、私は逆に幕府は効果的な弾圧法を編み出して芽を積んでしまった可能性をとります。
確かに幕府が効果的な弾圧方法を考えたかもしれませんが、自助努力がない限りはどれだけ無理をしても結局は滅亡することも歴史が証明していますし、難しいところです。
知行合一の陽明学は今の政治家の方々に是非学んでいただきたいですね。
明治維新のわずか30年前。
この後一気に情勢が動くんですよね。
尤も、維新後も庶民の生活はしばらく改善されなかったようですが、大塩平八郎氏が維新の時に存命であれば、赤報隊に加盟したでしょうか?
彼らは、官軍のスケープゴートにされて悲劇的な結末を迎え、悪名を着せられてしまいましたよね。
庶民のために立ち上がった大塩氏の勇気には敬服しています。
明治維新かわずか30年前の話です。庶民のために散っていった大塩の精神は今もなお私たちに何かを語りかけているようですね。
二二六事件も、東北飢饉を経験している東北出身の人が多く関与してたと聞いたことがあります。
ところで、このころの飢饉は、米価はどれくらいまで上がったのでしょうか??
米価については、飢饉の際には2倍~4倍に跳ね上がっている場合が多いですね。いずれにせよ、上がり過ぎては生活が成り立ちません。
愛人(一般人)に対するフライディの強引な取材に腹を立てたたけしが、軍団を率いてフライディを襲撃した事件ですが、その後の記者会見で「俺は大塩平八郎じゃない」と言ったのが頭に残っています。
事の真相は知りませんが、フライディの記者がその一般人女性に怪我を負わせるほどの、行き過ぎた取材?をしていて、ついに堪忍袋の尾が切れたたけしが、その記者に抗議に行ったもののノラリクラリのフライでディの対応に、ついに暴力事件へと発展したらしいです。
たけしが大塩平八郎じゃないと言ったのは、自分の愛人のために殴りこんだのであって、大義名分があった訳じゃないという意味だったんじゃないかと思います。
本日やっとたけしの言った意味が分かったような気がします(@_@;)
大塩の乱と自らの行動をたちどころに結び付けようとするビートたけしは、やはり天才なのかもしれませんね。