水戸藩では藩主の徳川光圀(とくがわみつくに)によって大日本史(だいにほんし)の編纂(へんさん)が始められましたが、作業が進んでいくうちに、前述した「徳をもって世の中を治(おさ)める王者(おうじゃ、天皇のこと)が権力に頼(たよ)って支配する覇者(はしゃ、幕府のこと)にまさる」という思想につながったのです。
尊王論は後述する外国勢力の接近に対抗するために外国人を実力行使によって排斥(はいせき)しようとする攘夷論(じょういろん)と結びつくようになり、水戸学の世界でも藤田幽谷(ふじたゆうこく)・藤田東湖(ふじたとうこ)の父子や会沢正志斎(あいざわせいしさい)らによって尊王攘夷論(そんのうじょういろん)が唱(とな)えられ、幕末の思想に重大な影響を与えました。
また、寛政の頃には高山彦九郎(たかやまひこくろう)が全国を旅して尊王思想を広めたり、蒲生君平(がもうくんぺい)が歴代天皇の御陵(ごりょう)を調査して山陵志(さんりょうし)を著したり、頼山陽(らいさんよう)が日本外史(にほんがいし)を著すとベストセラーとなったりしたことで、尊王思想は幕末の民間にまで広く浸透(しんとう)することになりました。
なお、蒲生君平はいわゆる「前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)」の名付け親でもあります。この他、先述したように平田篤胤による復古神道も、全国の下級武士や豪農を中心として幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えました。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
トラックバック(0) |
ぴーち こんばんは!
尊皇攘夷の考え方というのは幕末から
昭和の第二次大戦中にまで受け継がれていた思想
だったのでしょうか・・・・?
天皇を現人神と祀り上げられた理由もそこから来ているのですか?
応援凸
オバrev 出た~!頼山陽~~!!
頼山陽と言えば、祖父惟清が広島県竹原市に居たこともあり、広島と縁もゆかりもある人です。
ちなみ私は竹原市の隣町に住んでます^^;
日本外史の詳しい内容は分かりませんが、日本史に大きな影響があった人なんですね。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 尊王攘夷の思想は確かに明治以降も受け継がれました。
このうち、尊王に関してはもともと我が国では皇室を素直に敬愛する思想があったので、幅広く拡大した一面があります。
また、第二次大戦に至る過程においては、天皇は現人神として「利用された」印象も見受けられます。昭和天皇は終始平和を願われておられましたから。
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、頼山陽は広島と縁深い人物ですね。
日本外史は源平から徳川氏までの武家の歴史をまとめたもので、物語のような読みやすさが評判を呼んだといえそうです。
尊皇攘夷の考え方というのは幕末から
昭和の第二次大戦中にまで受け継がれていた思想
だったのでしょうか・・・・?
天皇を現人神と祀り上げられた理由もそこから来ているのですか?
応援凸
頼山陽と言えば、祖父惟清が広島県竹原市に居たこともあり、広島と縁もゆかりもある人です。
ちなみ私は竹原市の隣町に住んでます^^;
日本外史の詳しい内容は分かりませんが、日本史に大きな影響があった人なんですね。
このうち、尊王に関してはもともと我が国では皇室を素直に敬愛する思想があったので、幅広く拡大した一面があります。
また、第二次大戦に至る過程においては、天皇は現人神として「利用された」印象も見受けられます。昭和天皇は終始平和を願われておられましたから。
日本外史は源平から徳川氏までの武家の歴史をまとめたもので、物語のような読みやすさが評判を呼んだといえそうです。