かくして、当初は幕府の支配に都合が良かった朱子学によって、将軍は天皇に臣従(しんじゅう)すべきであるとする尊王論(そんのうろん)が導(みちび)き出されるという、何とも言えない皮肉な現象が生まれていったのです。
18世紀後半になると、竹内式部(たけうちしきぶ)が京都で若い公家(くげ)たちに尊王論を説き、また山県大弐(やまがただいに)が柳子新論(りゅうししんろん)を著して江戸で尊王論を説きましたが、両者とも江戸幕府によって処罰されました。
なお、竹内式部が1759年に幕府によって追放処分にされたのは宝暦事件(ほうれきじけん)、山県大弐が1767年に死刑となったのは明和事件(めいわじけん)と呼ばれています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
朱子学は幕府が考えるよりも、もっと崇高な教えであったということでしょうか。
国民も次第に高い教養を身につけ、本当に言わんとしている内容をしっかり把握出来るだけの見識が高くなっているにも関わらず、幕府は国民を侮っていた事が
拍車をかけたのでしょうかね(^_^;)
ぴーちさんへ
黒田裕樹 そうですね。
幕府としては都合が良かったゆえに高をくくっていた一方で、学問というのは常に進化しますから、朱子学に秘められていた真の評価に幕府が対応できなかったともいえそうです。
幕府にとってさらに想定外だったのは、そんな朱子学の変化に対して、意外なところから火の手が上がったことでしょうか。
次回の更新で明らかにしたいと思います。
朱子学は幕府が考えるよりも、もっと崇高な教えであったということでしょうか。
国民も次第に高い教養を身につけ、本当に言わんとしている内容をしっかり把握出来るだけの見識が高くなっているにも関わらず、幕府は国民を侮っていた事が
拍車をかけたのでしょうかね(^_^;)
幕府としては都合が良かったゆえに高をくくっていた一方で、学問というのは常に進化しますから、朱子学に秘められていた真の評価に幕府が対応できなかったともいえそうです。
幕府にとってさらに想定外だったのは、そんな朱子学の変化に対して、意外なところから火の手が上がったことでしょうか。
次回の更新で明らかにしたいと思います。