幕府の天文方(てんもんがた)の高橋至時(たかはしよしとき)は西洋の暦法を考慮(こうりょ)した寛政暦(かんせいれき)を作成し、弟子となった伊能忠敬(いのうただたか)は、50歳を過ぎてから全国の測量を実施して大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)を作成しました。
伊能図(いのうず)とも呼ばれるこの地図は、忠敬の死後の1821年に完成していますが、実際の地図と比べても遜色(そんしょく)のない高い精度を保(たも)っています。
幕府は翻訳作業を円滑(えんかつ)に行うために、至時の子で同じく天文方の高橋景保(たかはしかげやす)の建議(けんぎ)によって蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)を設けました。なお、蛮書和解御用は幕末に蕃書調所(ばんしょしらべしょ)と改称され、現代の東京大学の源流の一つとなっています。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
伊能忠敬はすでに50になってから
測量の旅に出かけたのですか(゚д゚)!
人生わずか50年・・・と言われていた
時代ですよね??
今で言えば、すでに80歳くらいに到達した
老体を鞭打って。。。
と言った所でしょうか(^^ゞ
いやいや。
それを伺って、忠敬の人並み外れた体力と
行動力に感服しました!!!
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 伊能忠敬は50歳まで商人として活躍し続け、隠居後に20歳近く年下の高橋至時に弟子入りして天文学を一から勉強しました。
仰るとおり人生50年の時代にリタイアしてからあれだけの大事業を達成するのですから、途方もないバイタリティーの持ち主だったのでしょうね。
オバrev まあ、個性的な人達が次々出てきたんですね。
それはやはり、積もったエネルギーと発散させる自由な場があったからなんでしょうか。
特に伊能忠敬には感心します。いくら高橋至時に弟子入りして学んだといえ、年も年だし、日本地図を作成しようというモチベーションが普通は湧いてこないと思うんですけど、一体何が彼を動かしたんでしょうか?
それに比較して、現在は持っているエネルギー自体が不足しているように感じます(^_^;
オバrevさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、この頃の我が国のエネルギーは凄まじいものがあります。
ここまで発展した理由としては、やはり平和であったことと、西洋の知識を手に入れる自由があったことではないでしょうか。
伊能忠敬は幼い頃から天文学に興味があったそうですが、それにしても彼の持つパワーはどんな人物もかなわないでしょう。
それもこれも大いなる探究心がもたらしたものであり、恵まれすぎている現代では逆にエネルギーとなるものが存在しないのかもしれません。
3百年前のオランダ語。
晴雨堂ミカエル 時代劇専門漫画誌「乱」に掲載された作品の中に、ペリー来航に同行した通訳が日本側通訳のオランダ語を聴いて「彼らが話しているオランダ語は3百年前のもの。素晴らしい」と驚嘆する場面がありました。
これは事実ですかね?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 私はそこまで詳しくは知りませんが、日本人がオランダ語を単なる通訳用にしか使っていなければ、進化せずにそのままの可能性がありますので、事実かもしれませんね。
伊能忠敬はすでに50になってから
測量の旅に出かけたのですか(゚д゚)!
人生わずか50年・・・と言われていた
時代ですよね??
今で言えば、すでに80歳くらいに到達した
老体を鞭打って。。。
と言った所でしょうか(^^ゞ
いやいや。
それを伺って、忠敬の人並み外れた体力と
行動力に感服しました!!!
応援凸
仰るとおり人生50年の時代にリタイアしてからあれだけの大事業を達成するのですから、途方もないバイタリティーの持ち主だったのでしょうね。
それはやはり、積もったエネルギーと発散させる自由な場があったからなんでしょうか。
特に伊能忠敬には感心します。いくら高橋至時に弟子入りして学んだといえ、年も年だし、日本地図を作成しようというモチベーションが普通は湧いてこないと思うんですけど、一体何が彼を動かしたんでしょうか?
それに比較して、現在は持っているエネルギー自体が不足しているように感じます(^_^;
ここまで発展した理由としては、やはり平和であったことと、西洋の知識を手に入れる自由があったことではないでしょうか。
伊能忠敬は幼い頃から天文学に興味があったそうですが、それにしても彼の持つパワーはどんな人物もかなわないでしょう。
それもこれも大いなる探究心がもたらしたものであり、恵まれすぎている現代では逆にエネルギーとなるものが存在しないのかもしれません。
これは事実ですかね?