教育に対する情熱は民間においても同様でした。武士や学者、あるいは町人によって多くの私塾(しじゅく)が開かれ、様々な学問が講義されました。18世紀初めに大坂の町人が出資して設立された懐徳堂(かいとくどう)からは、富永仲基(とみながなかもと)や山片蟠桃(やまがたばんとう)らの町人学者が生まれています。
一般庶民の教育機関としては寺子屋(てらこや)があり、時代が下(くだ)るにつれて数多く開設されていきました。村役人や僧侶(そうりょ)・神官(しんかん)・牢人(ろうにん)や富裕な町人などが師匠(ししょう)として読み・書き・算盤(そろばん)などを教え、世界にも引けを取らない我が国における民間の識字率(しきじりつ)の高さに貢献(こうけん)しました。
また18世紀初めには京都の石田梅岩(いしだばいがん)が石門心学(せきもんしんがく、または心学=しんがく)を始め、神道(しんとう)や仏教に由来する道徳や倫理(りんり)を教えるとともに、商人の存在意義や商業活動における営利の正当性などの商人道(しょうにんどう)を説(と)きました。
なお、石田梅岩の教えは弟子の手島堵庵(てしまとあん)やその弟子の中沢道二(なかざわどうに)らによって全国に広まりました。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
「読み」「書き」「そろばん」
は、今でも学校教育の基本でもありますよね^^
今は「そろばん」の代わりに「計算」と表現しているようですが、そろばんは暗算を得意にしてくれますし、指先を使う事で更に脳血流を良くする理に適った道具だなと思います^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおり、昔の道具にはそれなりの役目があります。
電卓が主流になった現代人には、暗算の機能が失われつつあるのではないかと危惧してしまいますね。
識字率について。
晴雨堂ミカエル この時期の日本の教育水準の高さは評判ですが、私の知人に人の言う事を何でも疑問をもち否定してみないと気が済まないひねくれた輩がいて、この識字率の点にも偉そうに異を唱えられた事があります。
彼の言うには、さほど識字率が高かった訳ではない、自分の名前を書けただけでも読み書きできる数に加えたに決まってる、という意見です。
彼の偉そうで断定的な物言いの割りには、これとて根拠の提示はありませんでした。
黒田氏は何かデータをお持ちですか?
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 1.当時の江戸時代を知る外国人(ゴロウニンなど)が、識字率の高さを証言している。
2.化政文化で絵物語を含む出版物が大流行している(絵物語でも文字が分からなければ全体像が理解できない)。
3.神社の絵馬には数学に関する記録が地方においても奉納されている(数学ができて文字が書けないはずがない)。
4.地方における年貢率などの伝達は当然文書で行われる(地方の農民が読み書きできなければ法外な年貢を取られる可能性があるから、当然自己防衛で読み書きはこなしたはず)。
5.明治維新後の近代化が地方においても進んでいた(もし明治以前に識字率が低ければ、まずは高くすることに時間がかかるはずであり、あれだけのスピードでの近代化は有り得ない)。
以上はすべて状況証拠ですが、これだけ挙げれば充分でしょう。
それらは私も提示しました。
晴雨堂ミカエル 黒田氏が仰った要素は全て私も存じていて既に提示しています。あの輩はその場では納得するが、日にちが経つとまた蒸し返し、もっと確かな数学的データを要求し、答えられないと、持論を強弁する始末。いつもこの調子で絡むので、気が疲れて鬱陶しく今は絶縁しています。
ふと当時を思い出して、聞いてみました。普通はあれで十分ですよね。それ以上の状況証拠は時間と労力とのバランスを考えても意味はないし物理的に無茶です。
晴雨堂ミカエルさんへ その2
黒田裕樹 相手側の言い分を聞いていない以上は断定できませんが、仰られたことが事実と仮定した場合はそう言わざるを得ませんね。
相手を言い負かすことに命を懸けて、(相手が馬鹿馬鹿しくなって話すのをやめた場合も含めて)相手が黙り込めば「どうだ」と言わんばかりに悦に入る。そんな人間はどこにでもいますし、仮に大臣など一定の地位に登り詰めれば、本人は全く自覚がなくても失言のオンパレードとなる。つい最近も起きたばかりですね。
個人的話ですみませんでした。
晴雨堂ミカエル 当方の個人的話を持ち出してすみませんでした。
江戸時代後期の識字率について嫌な思い出があったので、つい愚痴含みの質問をしてしまいました。
晴雨堂ミカエルさんへ その3
黒田裕樹 いえいえ、こちらも識字率についての認識を深めることができましたし、大丈夫ですよ。
「読み」「書き」「そろばん」
は、今でも学校教育の基本でもありますよね^^
今は「そろばん」の代わりに「計算」と表現しているようですが、そろばんは暗算を得意にしてくれますし、指先を使う事で更に脳血流を良くする理に適った道具だなと思います^^
応援凸
電卓が主流になった現代人には、暗算の機能が失われつつあるのではないかと危惧してしまいますね。
彼の言うには、さほど識字率が高かった訳ではない、自分の名前を書けただけでも読み書きできる数に加えたに決まってる、という意見です。
彼の偉そうで断定的な物言いの割りには、これとて根拠の提示はありませんでした。
黒田氏は何かデータをお持ちですか?
2.化政文化で絵物語を含む出版物が大流行している(絵物語でも文字が分からなければ全体像が理解できない)。
3.神社の絵馬には数学に関する記録が地方においても奉納されている(数学ができて文字が書けないはずがない)。
4.地方における年貢率などの伝達は当然文書で行われる(地方の農民が読み書きできなければ法外な年貢を取られる可能性があるから、当然自己防衛で読み書きはこなしたはず)。
5.明治維新後の近代化が地方においても進んでいた(もし明治以前に識字率が低ければ、まずは高くすることに時間がかかるはずであり、あれだけのスピードでの近代化は有り得ない)。
以上はすべて状況証拠ですが、これだけ挙げれば充分でしょう。
ふと当時を思い出して、聞いてみました。普通はあれで十分ですよね。それ以上の状況証拠は時間と労力とのバランスを考えても意味はないし物理的に無茶です。
相手を言い負かすことに命を懸けて、(相手が馬鹿馬鹿しくなって話すのをやめた場合も含めて)相手が黙り込めば「どうだ」と言わんばかりに悦に入る。そんな人間はどこにでもいますし、仮に大臣など一定の地位に登り詰めれば、本人は全く自覚がなくても失言のオンパレードとなる。つい最近も起きたばかりですね。
江戸時代後期の識字率について嫌な思い出があったので、つい愚痴含みの質問をしてしまいました。