また、江戸近辺の関東の農村はもともと所領が複雑に入り組んでおり、無宿人(むしゅくにん)や博徒(ばくと)がはびこって治安が悪化しました。このため、家斉は1805年に関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく、または「でやく」)を新設して、江戸周辺の警察機能を強化しました。
さらに1827年には、幕府の直轄地や私領、あるいは寺社領を問わずに数十ヵ所の村々を組み合わせた寄場組合(よせばくみあい)を編成させて、農村の秩序を維持するとともに地域の治安や風俗への対策を行いました。
なお、関東取締出役は関東の八つの国、すなわち八州をくまなく巡察(じゅんさつ)したことから八州廻(はっしゅうまわ)りとも呼ばれており、その活躍(かつやく)ぶりが現代においても時代小説の題材としてよく取り上げられています。




いつも有難うございます。
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ぴーち こんにちは!
いつの時代も捕物や、刑事ドラマは
不動の人気を博していますね(^^)v
「八州廻り~」何とかという時代劇、
北大路欣也さんが主演で放送されているのを
母がよく見ていたのを思い出しました^^
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 刑事ドラマのエッセンスをとり入れた時代劇は人気がありましたからね。
北大路欣也さんも八州廻りを演じられてますね。
あとは西郷輝彦さんとか…。
社会の変化
青田です。 黒田先生
こんにちは
青田です。
徳川家斉は、あまり、知名度はありませんが、
ある意味で、評価できることをしていたんですね。
しかし、驚いたことに
貨幣経済が農村まで、浸透していて、豪農が出現していたことです。
農村でも、そういう状況ということは、この当時の豪商の力は、小さな大名を上廻るものだったんでしょうね。
武士は、米で、給料をもらい、石高も増えないので、どんどん、貧しい武士も増えたのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
青田さんへ
黒田裕樹 貨幣経済は怒涛の勢いで浸透していきましたからね。
豪農が出現した、という事実が貧農史観の間違いを証明しています。荒廃地は確かに増えましたが、農村全体が貧しかったわけではないのですから。
武士の経済事情は仰るとおりですね。武士の困窮は身分秩序の崩壊をもたらし、ひいては幕府の存続すら危うくしていきます。なぜなら、幕府は表向き貨幣経済を認めなかったことで、抜本的な改革ができなかったからです。田沼意次の政策がもっと長続きしていれば…。
時代劇の舞台
晴雨堂ミカエル 文化文政期は時代劇の典型的な舞台ですね。ぶっ飛んだ奇人変人を輩出した時代なので好きです。
おみよの方の生涯に興味があります。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 > 文化文政期は時代劇の典型的な舞台ですね。ぶっ飛んだ奇人変人を輩出した時代なので好きです。
> おみよの方の生涯に興味があります。
銭形平次も文化文政期ですからね。時代劇の設定としてはふさわしいのでしょう。
おみよの方といえば、中野碩翁(なかのせきおう)の娘ですね。父親とともに悪役として時代劇によく出てきます。
淀屋
青田です。 黒田先生
こんばんは
青田です。
以前、講義中に幕府から、取り潰された豪商の
代表として、『大阪の淀屋』とおっしていたので
ウィキペディアで、調べて驚きました。
凄い、したたかで、スケールの大きい商人の一族だったんですね。しかも、最後もカッコイイ。
(以下ウィキペディアから抜粋)
淀屋(ウィッキペディアより)
◆◆◆◆◆◆◆◆
幕府より闕所(財産没収)処分にされた。
没収された財産、金12万両、銀12万5000貫(小判に換算して約214万両)、
北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などという記録が有る。
また諸大名へ貸し付けていた金額は銀1億貫(膨大に膨れ上がった利子によるものであるが、
現代の金額に換算しておよそ100兆円)にも上った。
しかし、闕所処分に先立ち伯耆国久米郡倉吉の地に暖簾分けした店を開き、
後の世代に再び元の大坂の地で再興した。幕末になり討幕運動に身を投じ、
殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
財産没収になったのが、1705年の六代将軍家宣の時代ですが、もし、綱吉の元禄時代が続いていれば、財産没収にはならなかったでしょうね。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、淀屋は他の商人とは全くスケールが違います。
淀屋の闕所は1705年ですが、これは綱吉政権の末期です。元禄文化に陰りが見えて幕府財政が傾いた頃ですから、見せしめと財政立て直しの一環として処分されたのかもしれませんね。
大阪の人間なら、淀屋の名は知らなくても淀屋橋の地名はみんな知っているでしょう。
いつの時代も捕物や、刑事ドラマは
不動の人気を博していますね(^^)v
「八州廻り~」何とかという時代劇、
北大路欣也さんが主演で放送されているのを
母がよく見ていたのを思い出しました^^
応援凸
北大路欣也さんも八州廻りを演じられてますね。
あとは西郷輝彦さんとか…。
こんにちは
青田です。
徳川家斉は、あまり、知名度はありませんが、
ある意味で、評価できることをしていたんですね。
しかし、驚いたことに
貨幣経済が農村まで、浸透していて、豪農が出現していたことです。
農村でも、そういう状況ということは、この当時の豪商の力は、小さな大名を上廻るものだったんでしょうね。
武士は、米で、給料をもらい、石高も増えないので、どんどん、貧しい武士も増えたのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
豪農が出現した、という事実が貧農史観の間違いを証明しています。荒廃地は確かに増えましたが、農村全体が貧しかったわけではないのですから。
武士の経済事情は仰るとおりですね。武士の困窮は身分秩序の崩壊をもたらし、ひいては幕府の存続すら危うくしていきます。なぜなら、幕府は表向き貨幣経済を認めなかったことで、抜本的な改革ができなかったからです。田沼意次の政策がもっと長続きしていれば…。
おみよの方の生涯に興味があります。
> おみよの方の生涯に興味があります。
銭形平次も文化文政期ですからね。時代劇の設定としてはふさわしいのでしょう。
おみよの方といえば、中野碩翁(なかのせきおう)の娘ですね。父親とともに悪役として時代劇によく出てきます。
こんばんは
青田です。
以前、講義中に幕府から、取り潰された豪商の
代表として、『大阪の淀屋』とおっしていたので
ウィキペディアで、調べて驚きました。
凄い、したたかで、スケールの大きい商人の一族だったんですね。しかも、最後もカッコイイ。
(以下ウィキペディアから抜粋)
淀屋(ウィッキペディアより)
◆◆◆◆◆◆◆◆
幕府より闕所(財産没収)処分にされた。
没収された財産、金12万両、銀12万5000貫(小判に換算して約214万両)、
北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などという記録が有る。
また諸大名へ貸し付けていた金額は銀1億貫(膨大に膨れ上がった利子によるものであるが、
現代の金額に換算しておよそ100兆円)にも上った。
しかし、闕所処分に先立ち伯耆国久米郡倉吉の地に暖簾分けした店を開き、
後の世代に再び元の大坂の地で再興した。幕末になり討幕運動に身を投じ、
殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
財産没収になったのが、1705年の六代将軍家宣の時代ですが、もし、綱吉の元禄時代が続いていれば、財産没収にはならなかったでしょうね。
淀屋の闕所は1705年ですが、これは綱吉政権の末期です。元禄文化に陰りが見えて幕府財政が傾いた頃ですから、見せしめと財政立て直しの一環として処分されたのかもしれませんね。
大阪の人間なら、淀屋の名は知らなくても淀屋橋の地名はみんな知っているでしょう。