寛政異学の禁によって、諸藩(しょはん)も幕府にならって朱子学のみを教えるようになったので、それ以外の学問、特に西洋の蘭学(らんがく)が衰退(すいたい)する原因となってしまいました。漢訳洋書の輸入を許可した吉宗の孫とは思えない愚策(ぐさく)ぶりです。
ちなみに湯島聖堂は定信が老中を退任した後の1797年に幕府の直営となり、昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんしょ)と称(しょう)されました。昌平坂学問所はもともと幕臣の子弟の教育所として発足(ほっそく)しましたが、後に藩士(はんし)や牢人(ろうにん)の受け入れも許したことで全国からの英才を集めて活気にあふれました。
なお、昌平坂学問所は現在の東京大学(とうきょうだいがく)の流れにつながるほか、明治以降に同じ場所に設立された東京師範学校(とうきょうしはんがっこう)や東京女子師範学校(とうきょうじょししはんがっこう)は、現在の筑波大学(つくばだいがく)やお茶の水女子大学(おちゃのみずじょしだいがく)の源流となっています。




いつも有難うございます。
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HANA子 朱子学の弊害の一番大きな部分はその強過ぎる保守性と排他性と思います。
それが及ぼす影響の最たるものは朱子学を国学としていたお隣の李氏朝鮮の堕落と衰亡を見れば一目瞭然ですよね。
歴史家の中には幕末に幕府から新政権(天皇)への主権譲渡がすみやかに行われたのは朱子学の尊王思想が広く浸透していたからと主張されてる方が少なくありませんが、
定信の朱子学推進が明治維新が成功した一因というのはなんとも皮肉的に思います。
HANA子さんへ
黒田裕樹 > 朱子学の弊害の一番大きな部分はその強過ぎる保守性と排他性と思います。
> それが及ぼす影響の最たるものは朱子学を国学としていたお隣の李氏朝鮮の堕落と衰亡を見れば一目瞭然ですよね。
保守性や排他性は古来の文化を守るという利点はありますが、外来物をうまくミックスして生き残ったのもまた我が国独自の手法ですからね。こだわり過ぎていては自滅の道を歩んでしまいます。ところが…
> 歴史家の中には幕末に幕府から新政権(天皇)への主権譲渡がすみやかに行われたのは朱子学の尊王思想が広く浸透していたからと主張されてる方が少なくありませんが、
> 定信の朱子学推進が明治維新が成功した一因というのはなんとも皮肉的に思います。
仰るとおり、これもまた事実なんですよね。
もっとも、朱子学者は新井白石などもいますから、定信がどこまで加担していたかは微妙なところですが。
わろ 確か、朱子学って滅亡寸前の宋の皇帝が現実逃避して体系化させた儒教の一つですよね。
朱子学の影響で、武士道は盲目的に主人に服従するものになったと個人的には、考えています。
明治維新の一因になったと思いますし、2次大戦中のナショナリズムに繋がるものがあると思います。良くも悪くも、朱子学は、今の日本人のモラルに影響を与えてるのではないでしょうか?
あと、東大と昌平坂が繋がってるのには驚きました!!
わろさんへ
黒田裕樹 > 確か、朱子学って滅亡寸前の宋の皇帝が現実逃避して体系化させた儒教の一つですよね。
> 朱子学の影響で、武士道は盲目的に主人に服従するものになったと個人的には、考えています。
> 明治維新の一因になったと思いますし、2次大戦中のナショナリズムに繋がるものがあると思います。良くも悪くも、朱子学は、今の日本人のモラルに影響を与えてるのではないでしょうか?
仰ることは確かに一理ありますね。
朱子学が我が国に与えた影響は、予想以上に大きいかもしれません。
> あと、東大と昌平坂が繋がってるのには驚きました!!
意外ですよね。結構こういう流れはありますよ。
こんばんは
ryo まったく関係ない質問なんですが。。
今日TVで聖徳太子の写真を中学生ぐらいの子に見せたら、みんな聖徳太子とは言わないんです。忘れましたが、聖徳太子に本名があったんですね。そこで先生に質問なんですが、どうして本名で教えるようになったのでしょうか。
ryoさんへ
黒田裕樹 > まったく関係ない質問なんですが。。
> 今日TVで聖徳太子の写真を中学生ぐらいの子に見せたら、みんな聖徳太子とは言わないんです。忘れましたが、聖徳太子に本名があったんですね。そこで先生に質問なんですが、どうして本名で教えるようになったのでしょうか。
最近の学説では「聖徳太子」は後世のつくり話であり、厩戸皇子(うまやどのおうじ)という本名で呼ぶべきだ、という考えがあるようです。確かに過去の書物でしか記録に残っていませんが、1000年以上も国民から慕われ続けた「聖徳太子」の称号をそう簡単に変更してよいものか、と私自身は非常に違和感を感じております。
一万円札から聖徳太子が姿を消したのは昭和59(1984)年ですが、この2年前(昭和57年)に起きた教科書誤報事件をきっかけに、近隣諸国条項という名のもとに我が国の教科書の内容に偏向が見られるようになりました。聖徳太子の外交上の大きな功績に、遣隋使に託した国書によって我が国が中国(当時は隋)の冊封体制から脱出するきっかけをつくったことが挙げられますが、これは裏を返せば日本が中国の「奴隷」でなくなったということであり、中国側からすれば「大悪人」になりますよね。同じように韓国から見れば悪人扱いされる伊藤博文が聖徳太子と同じ時期に千円札から排除されており、このあたりの事情と無関係ではないと思います。
いずれにせよ、我が国の歴史は諸外国に配慮しながらも自国の立場にたって教えるべきであり、諸外国への過度のおもねりは無用と考えております。
なお、今回の見解については平成21年6月の講座でも紹介しておりますので、リンク先を示しておきます。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-88.html
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-89.html
ぴーち おはようございます!
定信はいわゆる唯一神教的な考えの元での妄信的な信者であったのでしょうか。
やはりある程度広い範囲で色々な宗教のあり方を
学んだ上で、拝一神教的であったのなら、まだ救いようがあったのかも知れませんが。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 > 定信はいわゆる唯一神教的な考えの元での妄信的な信者であったのでしょうか。
> やはりある程度広い範囲で色々な宗教のあり方を
> 学んだ上で、拝一神教的であったのなら、まだ救いようがあったのかも知れませんが。
「熱心な○○者」の場合、他の宗教や学問も熟知したうえで、いろんなエッセンスを加えたうえでさらに発展させる人間と、自分の殻に閉じこもって他を認めようとしない心の狭い人物とに分かれることが多いですが、定信の場合は典型的な後者のパターンでしたからね(´・ω・`)
「優秀であった」というところがさらに問題であったのかもしれません。
それが及ぼす影響の最たるものは朱子学を国学としていたお隣の李氏朝鮮の堕落と衰亡を見れば一目瞭然ですよね。
歴史家の中には幕末に幕府から新政権(天皇)への主権譲渡がすみやかに行われたのは朱子学の尊王思想が広く浸透していたからと主張されてる方が少なくありませんが、
定信の朱子学推進が明治維新が成功した一因というのはなんとも皮肉的に思います。
> それが及ぼす影響の最たるものは朱子学を国学としていたお隣の李氏朝鮮の堕落と衰亡を見れば一目瞭然ですよね。
保守性や排他性は古来の文化を守るという利点はありますが、外来物をうまくミックスして生き残ったのもまた我が国独自の手法ですからね。こだわり過ぎていては自滅の道を歩んでしまいます。ところが…
> 歴史家の中には幕末に幕府から新政権(天皇)への主権譲渡がすみやかに行われたのは朱子学の尊王思想が広く浸透していたからと主張されてる方が少なくありませんが、
> 定信の朱子学推進が明治維新が成功した一因というのはなんとも皮肉的に思います。
仰るとおり、これもまた事実なんですよね。
もっとも、朱子学者は新井白石などもいますから、定信がどこまで加担していたかは微妙なところですが。
朱子学の影響で、武士道は盲目的に主人に服従するものになったと個人的には、考えています。
明治維新の一因になったと思いますし、2次大戦中のナショナリズムに繋がるものがあると思います。良くも悪くも、朱子学は、今の日本人のモラルに影響を与えてるのではないでしょうか?
あと、東大と昌平坂が繋がってるのには驚きました!!
> 朱子学の影響で、武士道は盲目的に主人に服従するものになったと個人的には、考えています。
> 明治維新の一因になったと思いますし、2次大戦中のナショナリズムに繋がるものがあると思います。良くも悪くも、朱子学は、今の日本人のモラルに影響を与えてるのではないでしょうか?
仰ることは確かに一理ありますね。
朱子学が我が国に与えた影響は、予想以上に大きいかもしれません。
> あと、東大と昌平坂が繋がってるのには驚きました!!
意外ですよね。結構こういう流れはありますよ。
今日TVで聖徳太子の写真を中学生ぐらいの子に見せたら、みんな聖徳太子とは言わないんです。忘れましたが、聖徳太子に本名があったんですね。そこで先生に質問なんですが、どうして本名で教えるようになったのでしょうか。
> 今日TVで聖徳太子の写真を中学生ぐらいの子に見せたら、みんな聖徳太子とは言わないんです。忘れましたが、聖徳太子に本名があったんですね。そこで先生に質問なんですが、どうして本名で教えるようになったのでしょうか。
最近の学説では「聖徳太子」は後世のつくり話であり、厩戸皇子(うまやどのおうじ)という本名で呼ぶべきだ、という考えがあるようです。確かに過去の書物でしか記録に残っていませんが、1000年以上も国民から慕われ続けた「聖徳太子」の称号をそう簡単に変更してよいものか、と私自身は非常に違和感を感じております。
一万円札から聖徳太子が姿を消したのは昭和59(1984)年ですが、この2年前(昭和57年)に起きた教科書誤報事件をきっかけに、近隣諸国条項という名のもとに我が国の教科書の内容に偏向が見られるようになりました。聖徳太子の外交上の大きな功績に、遣隋使に託した国書によって我が国が中国(当時は隋)の冊封体制から脱出するきっかけをつくったことが挙げられますが、これは裏を返せば日本が中国の「奴隷」でなくなったということであり、中国側からすれば「大悪人」になりますよね。同じように韓国から見れば悪人扱いされる伊藤博文が聖徳太子と同じ時期に千円札から排除されており、このあたりの事情と無関係ではないと思います。
いずれにせよ、我が国の歴史は諸外国に配慮しながらも自国の立場にたって教えるべきであり、諸外国への過度のおもねりは無用と考えております。
なお、今回の見解については平成21年6月の講座でも紹介しておりますので、リンク先を示しておきます。
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-88.html
http://rocky96.blog10.fc2.com/blog-entry-89.html
定信はいわゆる唯一神教的な考えの元での妄信的な信者であったのでしょうか。
やはりある程度広い範囲で色々な宗教のあり方を
学んだ上で、拝一神教的であったのなら、まだ救いようがあったのかも知れませんが。
応援凸
> やはりある程度広い範囲で色々な宗教のあり方を
> 学んだ上で、拝一神教的であったのなら、まだ救いようがあったのかも知れませんが。
「熱心な○○者」の場合、他の宗教や学問も熟知したうえで、いろんなエッセンスを加えたうえでさらに発展させる人間と、自分の殻に閉じこもって他を認めようとしない心の狭い人物とに分かれることが多いですが、定信の場合は典型的な後者のパターンでしたからね(´・ω・`)
「優秀であった」というところがさらに問題であったのかもしれません。