桓武天皇は延暦8(789)年に紀古佐美(きのこさみ)を征東大使(せいとうたいし)に任命して蝦夷の征伐を命じられましたが、蝦夷側の指導者である阿弖流為(=アテルイ)に大敗しました。ちょうどこの時期に長岡京で天然痘が流行していたことから、当時は「早良親王のタタリで敗北した」と考えられました。
平安京に遷都後の延暦16(797)年、桓武天皇は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられました。田村麻呂は蝦夷を征服して阿弖流為を降伏させると、延暦21(802)年に胆沢城(いさわじょう、現在の岩手県奥州市)を築いて鎮守府を多賀城から移し、翌延暦22(803)年には志波城(しわじょう、現在の岩手県盛岡市)を築き、東北地方の拠点としました。
しかし、これらの東北地方での戦いは平安京の造営と並行して行われており、農民に大きな負担を強(し)いたほか、国家財政を圧迫したことから、延暦24(805)年に桓武天皇はこの二大事業をそろって中止することを宣言されると、翌延暦25(806)年に70歳で崩御(ほうぎょ、天皇・皇后・皇太后・太皇太后がお亡くなりになること)されました。
なお、桓武天皇が諸国の軍団や兵士を廃止したことをきっかけとして、やがて地方において警察権が機能しなくなりましたが、このことが武士の誕生の原因の一つとなります(詳しくは後述します)。
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