冷泉天皇はご病弱であったため、早めに皇太子を決める必要があり、候補として冷泉天皇の弟である為平(ためひら)親王と守平(もりひら)親王の名が挙がりましたが、このうち年長の為平親王の方が有利と見られていました。しかし、為平親王が天皇となることだけは、藤原氏としては何としても避けなければならないことでした。
なぜなら、守平親王の母が藤原氏の一族であった一方で、為平親王は源高明の娘を妃(きさき)としていたからです。もし為平親王が天皇になれば、源高明が天皇の外戚となって政治の実権を握り、藤原氏の権勢に重大な影響を与えることになりますが、そんな折に「ある事件」が起きました。
安和(あんな)2(969)年、源高明が謀反の罪を着せられて大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷させられてしまいました。この事件は当時の年号から「安和の変」と呼ばれており、同年には冷泉天皇が守平親王に譲位され、円融(えんゆう)天皇として即位させました。なお、源高明の失脚によって藤原氏に対抗できる他氏勢力がついに存在しなくなり、以後は藤原氏が摂政や関白を独占することになりました。
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落雷を起こしたことから、道真は雷の神であった火雷天神(からいてんじん)と同一視され、やがて「天神様」と称されました。また「雷神となった道真公の怨霊が天に満ちた」ことから、道真を祀った社(やしろ)は「天満宮(てんまんぐう)」と称されるようになり、先述の社も、後世には太宰府天満宮や北野天満宮などと呼ばれるようになりました。
やがて時代が下り、怨霊から穏(おだ)やかな御霊(みたま)へと変化した道真に対して、人々は自然と信仰心を抱くようになり、江戸時代の頃には、道真が生前に著名な学者や歌人であったことから「学問の神様」として信仰されるようになりました。菅原道真公をめぐる「天神信仰」は、21世紀の現代においても国民から絶大なる支持を受けているのです。
ところで、晩年には菅原道真の怨霊に悩まされた醍醐天皇でしたが、在位中は摂政や関白を置かれずに、ご自身が親政をされました。その後、先述のとおり延長8(930)年に醍醐天皇が崩御されると、藤原時平の弟である藤原忠平(ふじわらのただひら)が朱雀天皇のもとで摂政や関白となりましたが、忠平の死後は朱雀天皇の弟である村上(むらかみ)天皇が、父の醍醐天皇と同様に摂政や関白を置かれずに親政を行われました。
醍醐天皇と村上天皇による親政は、当時の年号から「延喜・天暦の治(ち)」として後世に称えられました。その後、鎌倉時代末期に醍醐天皇の治世を目標とされ、本来は崩御後に贈られる追号(ついごう)を生前からお決めになられた天皇がおられました。後醍醐(ごだいご)天皇のことです。
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当時は全国的に天災や疫病(えきびょう)が立て続けに発生しており、これらの不幸が道真の怨霊(おんりょう)によって起きたと判断された醍醐天皇は、延長(えんちょう)元(923)年に道真の左遷を取り消され、生前と同じ右大臣の地位を追贈されました。なお、後の正暦(しょうりゃく)4(993)年にはさらに太政大臣を追贈されています。
しかし、その後の延長8(930)年旧暦6月26日に平安京の清涼殿(せいりょうでん)に落雷が発生して炎上し、かつて左遷後の道真の動きを監視していた役人を含めて多数の死傷者が出てしまったのです。
ご自身の居所で発生した惨劇に強い衝撃を受けられた醍醐天皇は体調を崩され、落雷から数か月後に子の朱雀(すざく)天皇に譲位されると、程なく崩御されました。「道真公の怨霊が天皇の御生命まで奪った」。恐怖におびえた当時の人々は、道真の怨霊を鎮めるのに躍起(やっき)になりました。
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菅原氏は代々学者の一族でしたが、特に優秀であった道真は、宇多天皇のご信任を受けて要職を歴任しました。寛平(かんぴょう)6(894)年には遣唐使の大使に任命されましたが、道真は唐の勢力が衰えていることを理由に遣唐使の中止を進言し、認められました。その後907年に唐が滅亡したため、遣唐使は二度と派遣されることはありませんでした。
寛平9(897)年、宇多天皇は実子で母が藤原冬嗣の血を引く醍醐天皇に譲位されましたが、宇多上皇は醍醐天皇に菅原道真を引き続き重用するよう強く求められました。そして昌泰(しょうたい)2(899)年、道真はついに右大臣(うだいじん)となり、同時に左大臣となった藤原時平と肩を並べることになりました。
「このままでは、道真率いる菅原氏によって藤原氏が築いてきた栄光を乗っ取られてしまう」。焦った時平は、昌泰4(901)年に醍醐天皇に対して「道真が自分の娘婿(むすめむこ)である斎世(ときよ)親王を皇位に就けようとしている」という出鱈目(でたらめ)な密告をしました。
この讒言(ざんげん、他人をおとしいれるために事実でないことを告げ口すること)を信用された醍醐天皇は、道真を北九州の大宰府の役職である大宰権帥(だざいごんのそち)へと左遷(させん)しました。この事件は「昌泰の変」と呼ばれています。2年後の延喜3(903)年、道真は左遷先の大宰府で失意のうちに亡くなりましたが、この事件がやがて我が国全体を揺(ゆ)るがす大騒動へと発展することになるとは、当時の誰もが予想できないことでした。
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その後、基経は光孝天皇の子である宇多(うだ)天皇が仁和(にんな)3(887)年にご即位された際に正式に関白に任命されましたが、宇多天皇が基経に出された勅書(ちょくしょ、天皇からの命令書のこと)に「基経を阿衡(あこう)に任ずる」と書いてあったことから大きな事件に発展してしまいました。
「阿衡」はチャイナの古典から引用したものでしたが、基経は「『阿衡』という言葉には地位はあっても実職が伴っていないから、その意味どおりに今後は一切政治を行わない」と宣言して、朝廷への出仕をやめてしまったのです。驚かれた宇多天皇は基経を説得されましたが、基経は首を縦に振ろうとしませんでした。
宇多天皇は勅書を起草した橘広相(たちばなのひろみ)を失脚させることでようやく事態を収拾されましたが、この事件は「阿衡の紛議(ふんぎ)」と呼ばれ、基経は自己の政治権力を宇多天皇に否応(いやおう)なく知らしめました。
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伴善男は、自分の政敵であり嵯峨天皇の実子でもあった左大臣(さだいじん)の源信(みなもとのまこと)による放火であると訴えましたが、事件を調査した太政大臣の藤原良房によって否定され、善男こそが事件の首謀者であるとして逆に捕らえられました。
伴善男は無実を訴えましたが受けいれられず、他の貴族とともに流罪となり、伴氏は完全に没落しました。これら一連の事件を「応天門の変」といい、同じ貞観8(866)年に良房が皇族以外で初の摂政(せっしょう、天皇が幼い時などの場合に政治を代行する職のこと)に正式に任命されています。
なお、放火への関与を疑われた源信は、事件から間もない貞観10年旧暦閏(うるう)12月(869年2月)に亡くなりました。また、応天門の変の様子は平安時代末期の12世紀後半頃の作とされる「伴大納言絵巻(ばんだいなごんえまき)」に描かれています。
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しかし、冷静になって考えてみれば、皇太子としての身分が保証されている恒貞親王がわざわざ東国まで行って謀反を起こすとは考えられませんし、その一方で、新たに皇太子に立てられた道康親王の母は、藤原冬嗣の子である藤原良房(ふじわらのよしふさ)の妹でした。つまり、承和の変は藤原良房らが自分たちの血を引く道康親王に皇位を継承させるために「仕組んだ」可能性があるのです。
その後、道康親王が即位されて文徳(もんとく)天皇となられると、藤原良房は文徳天皇と自分の娘である明子(あきらけいこ)との間に産まれたばかりの惟仁(これひと)親王を皇太子に立てました。
良房は斉衡(さいこう)4(857)年に太政大臣(だじょうだいじん、または「だいじょうだいじん」)となり、翌天安(てんあん)2(858)年に文徳天皇が崩御されて9歳の惟仁親王が清和天皇として即位されると、天皇の外戚(がいせき、母方の親戚のこと)として政治の実権を完全に握りました。
余談ですが、承和の変の首謀者とされる伴健岑はかつての大豪族である大伴氏の一族です。淳和天皇の諱(いみな、名前のこと。天皇のような身分の高い人は本名で呼ぶことを避ける習慣があったので、忌み名=いみな、という意味も込められていた)が同じ「大伴」であったため、遠慮して改姓していました。また、同じく首謀者である橘逸勢が嵯峨天皇や空海とともに「三筆」と称されたのは先述したとおりです。
なお、清和天皇の子孫の多くが臣籍降下して貴族となり、彼らは後に「清和源氏」と呼ばれました。そして、その一族の中から後に鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)が生まれています。
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北家とは藤原四兄弟の房前(ふささき)の子孫で、大同5(810)年に起きた薬子の変の際に嵯峨天皇の秘書長官である蔵人頭(くろうどのとう)として活躍した藤原冬嗣の一族です。実は、藤原北家の台頭の背景には、皇室のややこしい後継問題がありました。
嵯峨天皇はご自身の皇子や皇女を臣籍降下(しんせきこうか、皇族の身分を離れて一般の貴族になること)させた後に、実子の正良(まさら)親王ではなく、実弟の大伴(おおとも)親王に譲位され、淳和(じゅんな)天皇として即位させました。
実子ではなく実弟であるご自身に譲位された嵯峨上皇にご遠慮されたのか、淳和天皇は実子の恒貞(つねさだ)親王ではなく正良親王に譲位され、仁明(にんみょう)天皇として即位させると、今度は仁明天皇が実子の道康(みちやす)親王ではなく恒貞親王を皇太子に立てられました。
嵯峨天皇と淳和天皇の間でキャッチボールのように交互に皇位の継承が行われたわけですが、本来の原則である実子に継承させない方法にはやはり無理があり、結果的に「ある人物」が政治の実権を握ることになるのです。
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神仏習合を反映して神像(しんぞう)彫刻も盛んとなり、薬師寺の僧形八幡神像(そうぎょうはちまんしんぞう)や神功皇后像(じんぐうこうごうぞう)がつくられました。なお、僧形八幡神像は神でありながら僧侶(そうりょ)の姿をとる八幡神をイメージしており、八幡神が応神(おうじん)天皇と同一とされることから、応神天皇の母である神功皇后像もつくられたと考えられます。
また、天台宗や真言宗の厳しい山岳での修行と我が国古来の山岳信仰とが融合して、山林での修行の際に密教的な儀礼を行って霊験(れいげん、神仏によるご利益=ごりやくのこと)を得ようとする修験道(しゅげんどう)も生まれました。
名高い修験道の道場としては、和歌山の熊野三山(くまのさんざん)があります。熊野三山とは、熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)、熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)の三つの神社の総称であり、真言宗の聖地である高野山などとともに、平成16(2004)年に「紀伊山地の霊場と参詣道(さんけいみち)」として世界文化遺産に登録されています。
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当時の代表的な彫刻としては、観心寺(かんしんじ)如意輪観音像や室生寺弥勒堂(みろくどう)の釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)、衣のしわを波が翻(ひるがえ)っているように彫る技法である翻波式(ほんばしき)の神護寺(じんごじ)の薬師如来像(やくしにょらいぞう)などが知られています。
絵画では、園城寺の「黄不動(きふどう)」と呼ばれる不動明王像などの神秘的な仏画が描かれたほか、密教に関する仏画としては、神護寺や教王護国寺(きょうおうごこくじ)の両界曼荼羅(りょうかいまんだら)など、仏の世界を視覚的や象徴的にあらわした曼荼羅(まんだら)が多く描かれました。
なお、曼荼羅とは密教の教えの中心となる大日如来の智徳を表す金剛界(こんごうかい)と、慈悲(じひ)を表す胎蔵界(たいぞうかい)の二つの仏教世界を視覚的に構図化したものです。
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