万葉集の歌には心の動きを素直に表現したものが多く、我が国の民族の心情がよく示されています。また、万葉集は漢字の音訓を巧(たく)みに組み合わせて日本語をあらわした万葉仮名(まんようがな)で表記されているのも大きな特徴です。
万葉集の歌の作者は上記のとおり天皇や貴族、役人から農民や防人、貧しい人々にまで及ぶほか、年齢や地域も様々であり、男女の区別もありません。今から1200年以上も前に、我が国では身分や地域を超えた国民的歌集が完成していたのであり、これは当時の人々が共通の言葉を使い、感動を共有することが出来たことを示しています。
これこそが「和歌の前の平等」であり、すぐれた歌をつくれば立場に関係なく歌集に採用されるという伝統は、毎年の新年に皇居で行われる「歌会始(うたかいはじめ)の儀(ぎ)」において中学生や高校生が招待されることもあるなど、今日も引き継がれています。
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今日では、常陸国(ひたちのくに、現在の茨城県)・播磨国(はりまのくに、現在の兵庫県南西部)・豊後国(ぶんごのくに、現在の大分県)・肥前国(ひぜんのくに、現在の佐賀県・長崎県)の4か国で風土記の一部が伝えられているほか、出雲国(いずものくに、現在の島根県東部)の風土記はほぼ完全なかたちで残っています。
当時の教育機関としては、官吏(かんり)養成のために中央に「大学(だいがく)」が、諸国には「国学(こくがく)」が置かれ、経書(けいしょ、儒教で重要視される文献の総称)や律令・書道・算術などが教授されました。
また、当時は漢詩文(かんしぶん)の教養が貴族に必要とされました。石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)や天智天皇の子孫である淡海三船(おうみのみふね)が著名な漢詩文の文人(ぶんじん)として知られており、天平勝宝3(751)年には現存最古の漢詩集である「懐風藻(かいふうそう)」が成立しています。
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我が国における中央集権的な律令国家の確立は、必然的に国家意識を高めることとなり、天武天皇の時代に始められた歴史書の編纂(へんさん)が続けられ、まず和銅5(712)年に「古事記(こじき)」が、続いて養老4(720)年には「日本書紀(にほんしょき)」が完成しました。
古事記は、古くから朝廷に伝えられてきた「帝紀(ていき)」や「旧辞(きゅうじ)」をもとに、天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)に詠(よ)み習わせた(=暗記させた)内容を、太安万侶(おおのやすまろ)が漢字の音訓を用いて筆録したもので、神話伝承の時代から推古天皇までの物語となっています。
日本書紀は、天武天皇の子である舎人親王(とねりしんのう)が中心となって編纂され、チャイナの歴史書の体裁(ていさい)にならって漢文の編年体(へんねんたい)により、神代から持統天皇までの歴史が記載されています。
なお、編年体とは年代を追って出来事を記述していく方法であり、歴史全体の流れがつかみやすくなっています。これに対して、人物や国ごとの業績を中心に記述していく方法は「紀伝体(きでんたい)」と呼ばれ、チャイナの「史記(しき)」などが例として挙げられます。
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時代の勝者となった藤原氏にとって、仏教勢力を背景に墾田の私有を禁じた政治を行った二人は「敵」であり、悪役として印象づけるために、二人の間に「そういう関係」があることを暗示したのがきっかけではないかと推定されています。
歴史は正しく伝えられ、かつ評価されるのが大前提ですが、時代の勝者によって筆が書き換えられることは現代でもよくある話です。
私たちは歴史を学ぶ際に、当時の背景や勢力争いなどに加えて、歴史の大きな流れを慎重に見極めながら真実を導き出していきたいものですね。
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鑑真によって戒律が伝えられ、それが広がり始めた頃に道鏡の活躍が始まるのですが、もし彼が称徳天皇と愛人関係になって自ら戒律を破るようなことがあれば、当時の仏教勢力はそんな彼を支持したでしょうか。
それに、称徳天皇が崩御された後に道鏡が下野国に追放されていますが、もし彼が称徳天皇と愛人関係になっていれば、ここぞとばかりに戒律を破った罪で彼の僧籍を剥奪(はくだつ)するか、場合によっては殺害されてもおかしくないのに、現実には彼は僧のままこの世を去っているのです。
加えて、先述したように「道鏡が天皇になろうとした」のではなくではなく「称徳天皇が道鏡を天皇後継に指名された」のが正しい表現ですし、また称徳天皇にしても、もし男性と深い関係に陥(おちい)るような女性であれば、当時の我が国の風潮として、いかに実力があったとしても、称徳天皇として重祚(ちょうそ)されることや、寺社を除く墾田の私有を禁止するという思い切った政治などを天皇の周囲が許すことは決してなかったでしょう。
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俗説として一般的に有名なのは「称徳天皇は始めのうち藤原仲麻呂と愛人関係にあったが、自分の病を治してくれた道鏡とも関係を持つようになり、振られた仲麻呂が腹いせに乱を起こしたが滅ぼされ、その後は称徳天皇の愛を一身に受けた道鏡が天皇になろうという野心を持った」というものですが、私はこのような話は「有り得ない」と考えます。
まず、称徳天皇と藤原仲麻呂の関係ですが、これまでに書いたように、両者はむしろ対立関係にありました。藤原仲麻呂は光明皇太后の信任を得ることによって、称徳天皇を差し置いて政治の実権を独占していたからです。
その後、専横を強めた仲麻呂改め恵美押勝が新羅征討まで試みるようになったことに対して、亡国の危機を救うために称徳天皇が立ち上がられ、政界に復帰したというのが本来の姿です。また、称徳天皇と道鏡の関係についても、当時の「常識」として有り得ません。なぜそのように断定できるのでしょうか。
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こうした経緯もあったことから、感謝のお気持ちを持たれた光仁天皇は藤原百川や藤原永手など藤原氏の一族を重く用いられ、以後は光仁天皇とその信任を受けた藤原氏によって律令政治の再建が目指されました。なお、藤原百川は四兄弟の宇合(うまかい)の子で、藤原永手は房前(ふささき)の子にあたります。
こうして、100年にも満たない短い間に繰り広げられた勢力争いは最終的に藤原氏の手に引き継がれ、以後も藤原氏は政治に積極的に関わっていくことになるのです。
ちなみに、称徳天皇と道鏡が禁止した墾田の私有は光仁天皇のご即位後に再開されています。また、仏教勢力を排除する傾向は、やがて迎える「新たな時代」に向けての大きな流れのひとつとなったのでした。
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道鏡への皇位継承の夢が破れた称徳天皇は、そのショックが尾を引かれたのかやがて重い病となられ、神護景雲4(770)年に53歳で崩御されました。称徳天皇の崩御によって後ろ盾をなくした道鏡は下野国(しもつけのくに、現在の栃木県)に追放となり、宝亀(ほうき)3(772)年に73歳で亡くなりました。
称徳天皇が後継をお決めにならずに崩御されたため、次の天皇に誰を即位させるかについて朝廷間で協議されました。右大臣の吉備真備は天武天皇の血を引く臣籍降下した元皇族を推挙しましたが、土壇場(どたんば)で藤原百川(ふじわらのももかわ)や藤原永手(ふじわらのながて)が支持した白壁王(しらかべおう)が光仁(こうにん)天皇として即位されました。
光仁天皇はもちろん皇室の血を引いておられましたが、実は天智天皇の孫にあたられました。壬申(じんしん)の乱以来、天武系で占(し)められていた天皇の地位が、約100年ぶりに天智系に復帰したことになります。なお、光仁天皇の血統は現代の皇室にも受け継がれています。
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そのようなお自らのご事情と、藤原氏や皇族に対する冷淡なご感情とによって、称徳天皇は自らの後継者として僧である道鏡を指名する決意をされました。
ちょうどそのとき、神護景雲3(769)年に北九州の大宰府から「道鏡が天皇の位につけば天下は泰平になる」との宇佐八幡宮(うさまちまんぐう、大分県宇佐市)からの神託(しんたく、神からのお告げのこと)があったとの報告がありました。
称徳天皇は大いに喜ばれ、その真偽を和気清麻呂(わけのきよまろ)に確認させました。しかし、和気清麻呂は、称徳天皇のご期待に反して「皇位は神武(じんむ)天皇以来の皇統が継承すべきである」との神託を持ち帰りました。
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称徳天皇は自分の病を治した道鏡を信任し、彼に政治の実権を委(ゆだ)ねられました。道鏡は700年に河内国若江郡(かわちのくにわかえぐん、現在の大阪府八尾市)で生まれ、葛城山(かつらぎさん)などで厳しい修行を積んだほか、修験道(しゅげんどう)や呪術にも優れていたとされています。
仏教勢力を背景として自らの地位を高めた道鏡は、天平神護(てんぴょうじんご)元(765)年に太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)となり、翌天平神護2(766)年には法王(ほうおう)に任じられました。
また、天平神護元(765)年にはそれまでの墾田永年私財法によって過熱していた私有地の拡大を防ぐため、寺社を除く墾田の私有を禁止しました。この禁止令は、率先して墾田開発を推し進めていた藤原氏に対して特に大きな打撃を与えました。
ところで、称徳天皇は母の一族である藤原氏による政治の専横や、それを黙認した淳仁天皇などの皇族に対して冷ややかな目で見ておられましたが、ご自身の子孫に天皇の地位を譲ることもできませんでした。なぜなら、称徳天皇は生涯独身でいらっしゃったからです。実は、女性天皇には「結婚してはならない」という不文律(ふぶんりつ、文章として成り立っていないが、暗黙のうちに守られている約束事のこと)がありました。
この当時の女性は、男性によって「支配される」ことが一般的でした。ということは、仮に女性天皇に夫君(ふくん)がおられる場合には「天皇」を支配する「天皇」が存在することになり、律令政治に支障が出ると考えられていたのです。
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