その後、アメリカで早期停戦を主張し続けていた共和党のアイゼンハワーが大統領に就任したり、ソ連の独裁者であったスターリンが死去したりするなど、米ソの指導者の交代を契機として、1953(昭和28)年7月にようやく休戦となり、軍事境界線上にある板門店(はんもんてん)で休戦協定が調印されました。
朝鮮戦争による死傷者は、民間人を含めれば数百万人にまで及ぶ膨大(ぼうだい)な数となりました。また、朝鮮戦争はあくまでも「休戦中」であり、北朝鮮と韓国との間はいまだに戦闘状態が継続されています。
また、朝鮮戦争のドサクサに紛(まぎ)れて、韓国の李承晩(イ・スンマン)大統領が、1952(昭和27)年に国際法を無視して沿岸から60海里(カイリ)までの権利を主張し(これを「李承晩ライン」といいます)、我が国固有の領土である竹島もラインの中に含まれるとして強引に占領しました。これ以降、韓国はいまだに竹島への不法占拠を続けています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
解任されて帰国したマッカーサーは、翌5月3日に開かれたアメリカ上院軍事外交合同委員会において、以下のように証言しています。
「日本が戦争へと向かった動機は、その大部分が安全保障の必要性に迫られてのことだった」。
それにしても、これだけの重要な証言が、教科書を含めた我が国の歴史教育においてほとんど知らされていないというのは、いったいどういうことでしょうか。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、中華人民共和国が人民解放軍を「義勇兵」として派遣したことで北朝鮮軍は勢力を盛り返し、その後の戦局は一進一退を繰り返しました。
ところで、この朝鮮戦争を通じて、マッカーサーは「日本にとって朝鮮半島がいかに重要な土地であったか」ということを嫌(いや)というほど思い知らされました。
なぜなら、北方から強大な勢力が朝鮮半島に現れた際に、半島を守らなければ日本の安全が保障できないうえに、朝鮮半島から敵の勢力を完全に追い払おうと思えば、それこそ満州(現在の中国東北部)に出て行かざるを得ないということが、自分がその立場に追い込まれて初めて分かったからです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
また、同じ1950(昭和25)年の1月には、アメリカのアチソン国務長官が「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン-沖縄-日本-アリューシャン列島までであり、それ以外の地域は責任を持たない」と発言しました(これを「アチソンライン」といいます)。
アチソンラインの意味を「韓国はアメリカの防衛圏内ではない」と判断したソ連のスターリンが、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)に韓国への侵略を指示すると、同年6月25日に北朝鮮軍が突然38度線を越えて韓国へ侵攻を開始しました。いわゆる「朝鮮戦争」の始まりです。
開戦3日後の6月28日に韓国軍を撃破した北朝鮮軍が、韓国の首都であるソウルを占領すると、国際連合の安全保障理事会は、北朝鮮を侵略国とみなして即時停戦を要求する決議を採択し(拒否権を持つ常任理事国のソ連は欠席でした)、マッカーサーを総指揮官とする「国連軍」を結成しました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
不況による人員整理によって、街には失業者が増大するとともに、労働争議も激しくなりましたが、昭和24(1949)年に国鉄(現在のJR)による人員整理が発表された直後に「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」が相次いで発生し、その際に疑いの目が国鉄労働組合や共産党に向けられたことで、労働運動は大きな打撃を受けました。なお、これらの事件の真相はいまだに謎に包まれています。
この他、不況の深刻化以前の昭和23(1948)年には、GHQの命令による政令201号によって国家公務員法が改正され、当初は認められていた官公庁職員のストライキが禁止されました。
また、産別会議(=全日本産業別労働組合会議)内における共産党の党勢拡大に反発した勢力を中心に、昭和25(1950)年に「日本労働組合総評議会(=総評)」が結成されるなど、内部分裂を起こした労働運動が次第に沈静化しました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
これらの原則を実施させるため、翌昭和24(1949)年にGHQの顧問として来日した銀行家のドッジは、同年度に赤字歳出を許さない超均衡予算を編成させ、財政支出を大幅に削減させました。
また「1ドル=360円」の単一為替レートを設定し、日本経済を国際経済へと結びつけることで、我が国の国際競争力を強化しようとしました。ドッジによるこうした一連の施策は、今日では「ドッジ=ライン」と呼ばれています。
なお、ドッジ=ラインを税制面から裏づけるため、昭和24(1949)年と翌昭和25(1950)年の2度にわたって来日したシャウプを団長とする税制使節団の指導によって、直接税中心主義や法人税の減税、累進(るいしん)課税制度など税制の大改革が実施されました。こちらは「シャウプ勧告」といいます。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、中国大陸や朝鮮半島における共産主義の台頭によって、アメリカが得られた果実がほとんど存在しないという厳しい現実や、大戦末期からの米ソ対立の激化が、いわゆる「トルーマン=ドクトリン」などの対ソ封じ込め政策を招いたことによって、アメリカは「日本の弱体化」を目論(もくろ)んだ従来の方針を改めざるを得なくなりました。
アメリカは、我が国を政治的に安定した工業国として復興させるとともに、東アジアにおける自由主義陣営の防波堤として共産主義陣営に対峙(たいじ)させ、西側陣営にとっての東アジアの友好国と位置づけようとしました。
しかし、アメリカが考えた「東アジアにおける自由主義陣営の防波堤」という我が国の立場は、戦前からの本来の姿と全く同じでした。「日本憎し」という感情から、そんな我が国を自らの手で徹底的に潰(つぶ)したアメリカがわざわざ再構築しなければならなくなるという現実は、皮肉以外の何物でもなかったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
毛沢東はソ連の、蒋介石はアメリカの支援を受けてそれぞれ戦闘を続けましたが、戦局は共産党の優位に展開し、敗れた蒋介石は1949(昭和24)年に台湾に逃れ、中華民国政府として存続しました。
一方、毛沢東は、同年10月に北京で「中華人民共和国」の建国を宣言し、自らが主席となりました。共産党が最終的に内戦で勝利を得た背景には、ソ連のコミンテルンによる「日本と蒋介石とを戦わせて、両者を疲弊(ひへい)させたうえで『漁夫の利』を得る」という作戦が成功した流れが存在していると考えられています。
なお、台湾はかつて我が国の領土でしたが、戦後に国民党による一方的な支配が行われるようになると、この動きに反発した台湾民衆が抗議行動を起こした際に、政府が軍事力で徹底的に弾圧して、多数の犠牲者を出した「二・二八事件」が1947(昭和22)年に起きています。
また、アメリカとソ連によって分割占領された朝鮮半島は、北部に金日成(キム・イルソン)を首相とする「朝鮮民主主義人民共和国(=北朝鮮)」が、南部に李承晩(イ・スンマン)を大統領とする「大韓民国(=韓国)」が1948(昭和23)年にそれぞれ成立し、翌年に建国された中華人民共和国や、戦前からのモンゴル人民共和国(現在のモンゴル国)、さらにはソ連の存在とともに、東アジアの共産主義化がますます加速することになりました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
これ以降、アメリカやソ連を中心とする東西二大陣営が、軍備や経済力・イデオロギーなどあらゆる面で激しい競争を展開することになりましたが、こうした緊張関係の構築は、いつしか「冷たい戦争」あるいは「冷戦」と呼ばれるようになりました(The cold war)。
もっとも、アメリカを中心とした西側諸国による「封じ込め」政策が功を奏したことによって、ヨーロッパにおける共産圏のこれ以上の拡張が望めなくなったソ連が、以後の矛先(ほこさき)をアジアに向けたことによって、東アジアの共産主義化が進むことにつながったのです。
なお、ワルシャワ条約機構はソ連が崩壊した1991(平成3)年に解散しましたが、北大西洋条約機構は、旧社会主義国の東欧諸国などを含めた31か国で今も存続しています(2023年現在)。また、平成30(2018)年にはNATOの日本政府代表部がブリュッセルの在ベルギー日本大使館に設置されたほか、我が国はNATOの「グローバル・パートナー国」と位置付けられています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なお、前回(第96回)より会場が「貸会議室プランセカンス」に変更となっているほか、メインの主催者が「国防を考える会」に変更されています。QRコードはこちらです。

(クリックで拡大されます)

(クリックで拡大されます)
第97回黒田裕樹の歴史講座「日本古代史その5 ~平城京と天平文化~」
「日本古代史」の講座の5回目は「平城京と天平文化」と題して、遣唐使による様々な文化の発展や、公地公民制から「墾田永年私財法」による荘園の拡大、政治の実権を握った者が短期間で目まぐるしく移動した歴史、さらには奈良時代を代表する天平文化などについて、黒田節で分かりやすく語ります。ご期待ください!
主催:国防を考える会・正しい歴史を伝える会
後援:授業づくりJAPAN・新聞アイデンティティ
日時:令和5年7月22日(土) 午後2時より
※今回は土曜開催となります。ご注意ください!
会場:貸会議室プランセカンス
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
大阪市淀川区西中島4丁目2-26 天神第一ビル6階 Osaka Metro御堂筋線西中島南方駅および阪急京都線南方駅下車すぐ
※地下鉄西中島南方駅の北改札を出て左に進みます。横断歩道を渡るとファミリーマートが正面に見えます。左に曲がって30秒程進みますと、右手に天神第一ビルが見えますので、エレベーターで6階に上がってください。エレベーター正面の部屋が会場です。
参加費:金2,000円
※国防を考える会の会員は1,000円、高校生以下および国防会青少年会員は無料です
受付は国防を考える会で行います。
TEL:06-4256-4868(受付時間 月~金/10時~17時 土日祝/休)
MAIL:info01@kokuboukai.com
講座の申し込みサイトはこちらです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。