日本自由党は、同じく昭和20(1945)年11月に旧立憲民政党の流れをくむ大日本政治会の後継政党として結成された日本進歩党と連携(れんけい)して、鳩山を首班とする組閣に着手しましたが、鳩山がGHQから公職追放者に指定されたため、急きょ貴族院議員であった吉田茂(よしだしげる)を入党させ、第一次吉田内閣が誕生しました。
しかし、組閣以後も次々と公職追放者が出たこともあって、翌昭和22(1947)年の衆議院総選挙では第二党に転落したほか、芦田均(あしだひとし)らが脱党した後に日本進歩党と合流して民主党を結成し、先述のとおり、日本社会党や農村を地盤とした国民協同党と共に片山哲内閣を組織しました。
片山内閣が翌昭和23(1948)年1月に短期間で崩壊(ほうかい)すると、同じ三党の連立内閣として民主党の総裁となった芦田均が内閣を組織しましたが、間もなく発覚した大規模な贈収賄(ぞうしゅうわい)事件である昭和電工事件を原因として、同年10月には総辞職に追い込まれました。
その後、日本自由党を母体として結成された民主自由党が単独で第二次吉田茂内閣を成立させると、翌昭和24(1949)年1月の衆議院総選挙で過半数を超える絶対多数の議席を獲得し、吉田内閣は長期政権となりました。
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