聖徳太子は、自ら高句麗の高僧であった恵慈(えじ)に学び、法華経(ほけきょう)・勝鬘経(しょうまんぎょう)・維摩経(ゆいまきょう)の注釈書である「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を著しました。
また、この時期に高句麗の僧である曇徴(どんちょう)が彩色(さいしょく、絵の具のこと)や紙・墨(すみ)の技法を伝え、百済の僧の観勒(かんろく)は我が国に暦法(れきほう)をもたらしたとされています。なお、先述のとおり聖徳太子は恵慈から仏教のみならず東アジアにおける国際情勢を詳しく学んでおり、その後の遣隋使をきっかけとするチャイナとの対等外交を実現しています。
ところで、聖徳太子が摂政に任じられた6世紀末頃から飛鳥の地に天皇の宮殿が次々に造営されました。なかでも603年に推古天皇によって造営されたと伝わる小墾田宮(おはりだのみや)は、先述した隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)が我が国に来訪した際の宮殿とされています。
また、皇族や蘇我氏などの有力な豪族もそれぞれ邸宅を構えていましたが、時代が進むにつれて様々な施設が飛鳥の地に集中するようになり、本格的な宮都(きゅうと)が造営される段階へと進みました。こうした流れが後の藤原京(ふじわらきょう)や平城京(へいじょうきょう)などの新都造営をもたらすことになります。
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