「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。
我が国が皇帝の文字を避けることで隋の立場に配慮しつつも、それに勝るとも劣らない称号である「天皇」を使用することで、両国が対等な立場であるという方針を変更しないという、断固たる決意を示したのでした。ちなみに、この国書が「天皇」という称号が使われた始まりとされています(ただし、これには異説もあり)。
聖徳太子が遣隋使で見せた気概は、隋の我が国に対する態度を明らかに変えました。そこには、国内において「和の尊重」や「話し合いの重視」という柔軟な姿勢を示しながらも、外国に向けては毅然(きぜん)とした態度で一歩も引かず、命がけで取り組むという厳しい姿勢で臨んだ聖徳太子の隠れた業績がありました。
そして、聖徳太子による対等外交の方針はそれまでのチャイナによる「冊封体制(さくほうたいせい、冊封とはチャイナの皇帝が周辺諸国の首長に王などの爵位を授け、その国を統属させる体制のこと)」から脱却するきっかけとなり、我が国に自主独立の精神と独自の文化を生み出すきっかけにもなったのです。その意味においても、外交面で聖徳太子が我が国に残した功績は極めて大きなものがありました。
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