さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。
何と、小野妹子が隋からの正式な返書を紛失してしまったのです。外交官が国書を失くすという信じられないミスに大慌(あわ)てとなった朝廷でしたが、本来なら重罪になってもおかしくなかった妹子は、推古天皇のとりなしによって許されました。
これには、隋からの返書の内容があまりにも我が国にとって厳しく(例えば、同じ「天子」と称したことに対する激しい怒りなど)、とても見せられるものではなかったゆえに、敢えて「失くした」ことにしたからだという説があります。聖徳太子や推古天皇が小野妹子の罪を許したのも、妹子の苦悩を以心伝心で察したからかもしれません。
さて、煬帝からの返書とは別に、裴世清が我が国からの歓待を受けた際に送ったとされる国書が「日本書紀(にほんしょき)」に記されていますが、その内容は、従来のチャイナの諸外国に対する態度とは全く異なるものでした。
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こうした外交関係のなかで隋が我が国を攻めようとすれば、同盟国である高句麗や百済が黙っていません。それどころか、逆に三国が連合して隋に反撃する可能性も十分に考えられますから、もしそうなれば、いかに大国隋といえども苦しい戦いになることは目に見えていました。
つまり、隋が我が国を攻めようにも、リスクがあまりにも高過ぎるためにできないのです。従って、国書の受け取りを拒否して我が国と敵対関係になるという選択は不可能であり、そうだとすれば、我が国からの国書を黙って受け取るしか手段がありませんが、その行為は「我が国が隋と対等外交を結ぶ」ことを事実上認めることを意味していたのです。
2回目の遣隋使を送る以前から、聖徳太子は朝鮮半島をめぐる動きや隋の現状などを徹底的に調査したことで、東アジアの正確な国際情勢をつかんでいました。その結果、隋が我が国を攻める可能性がゼロに等しいことを見越したうえで、対等外交を一方的に宣言した国書を隋に送りつけたのです。言うなれば、聖徳太子の完全な「作戦勝ち」でした。
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隋に勝った高句麗でさえこの態度だというのに、敢えて対等な関係を求めるという、ひとつ間違えれば我が国に対して隋が攻め寄せる口実を与えかねない危険な国書を送りつけた聖徳太子には、果たして勝算があったのでしょうか。それとも、自国の実力を度外視した無謀な作戦だったのでしょうか。
結論を先に言えば、当時の隋は、我が国へ攻め寄せる余裕が「全くといっていいほどなかった」のであり、また、その事実を聖徳太子が冷静に見抜いていました。
当時の隋は、高句麗との戦いによる出費で国力が低下していたのみならず、煬帝の圧政による政情不安もあり、国内が決して安定した状態ではなかったのです。さらに、我が国が島国であることから、攻めようとすれば無数の大きな船が必要になるなど、多額の出費がかさむことも十分予測できました。
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そして、この構図はやがて大陸周辺の諸外国にも強制されることになり、皇帝の臣下となって許してもらうようにお願いするという「朝貢(ちょうこう)外交」を我が国も行わざるを得なくなったのですが、こんな屈辱的(くつじょくてき)な話はありません。
大陸に隋という新たな支配者が誕生したのを機会に、聖徳太子はこれまでとは違う態度によって、すなわち「『皇帝』=『天皇』と名乗れるのは我が国も同じだ」という強い意思で、対等な関係の外交に臨む姿勢を「天子」という言葉で示したのでした。
東アジアの超大国である隋に対して、これまでのように服属するのではなく、対等な立場での関係を希望するという「重大な決意」を聖徳太子は見せつけたわけですが、これは、我が国にとって命取りにもなりかねない、非常に危険な賭けにも思えました。
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「日出(ひい)ずる処(ところ)の天子(てんし)、書を日没(ひぼっ)する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや(=お元気ですか、という意味)」。
果たしてこの国書のうち、どの部分が煬帝を怒らせたのでしょうか。
国書を一見すれば「日出ずる」と「日没する」に問題があるような感じがしますね。「日の出の勢い」に対して「日が没するように滅びゆく」とは何事か、という意味に取れなくもありません。しかし、この場合の「日の出」と「日没」は、単なる方角として使われただけです。すなわち「日の出」が東で「日没」が西という意味であり、煬帝が激怒した理由は別にあります。
それは「天子」という言葉です。天子とはチャイナでは皇帝、我が国では天皇を意味する君主の称号ですが、煬帝は自国よりも格下である(と思っていた)我が国が、この言葉を使ってくるとは予想もしていなかったのです。
なぜなら、チャイナの考えで「皇帝」は世界で一人しか存在してはいけないことになっているからです。
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事前の様々な準備を終えた聖徳太子は小野妹子を使者として、607年に満を持して2回目の遣隋使を送りました。
この頃、隋の皇帝は2代目の煬帝(ようだい)が務めていました。「日本からの使者が来た」との知らせに煬帝が宮殿に現れると、手にした我が国からの国書(こくしょ)を読み始めました。すると、みるみるうちに煬帝の表情が険しくなり、ついには顔を真っ赤にして叫びました。
「何だ、この失礼な物言いは!」
「こんな無礼で蕃夷(ばんい、野蛮という意味)な書は、今後は自分に見せるな!」
煬帝のあまりの怒りぶりに隋の役人たちが震え上がった一方で、我が国からの使者である小野妹子は涼しい顔をしていました。
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また、第3条や第8条については、この条文を入れることによって、蘇我氏にも「天皇への忠誠」や「役人の心得」を従わせることに成功しているだけでなく、それを破れば「憲法違反(といっても現代とは意味が異なりますが)」になることも意味しています。
冠位十二階と同様に、憲法十七条の制定によって、聖徳太子は蘇我氏による横暴や独走を抑え、後の中央集権国家の誕生へ向けての布石を確実に打っていたのです。
「いつまでも蘇我氏の思うままにはさせない」。政治家という職業には、時として誰にも負けないくらいの執念深さが必要なのかもしれません。
なお、聖徳太子は620年に「天皇記(てんのうき)」「国記(こっき)」などの歴史書を編纂(へんさん)しましたが、これらはチャイナなどの対外関係を念頭に、当時伝えられていた「帝紀(ていき、皇室の系譜)」や「旧辞(きゅうじ、神話伝説など)」をもとにつくられたとされています。
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また第3条では「天皇の命令には必ず従いなさい」と天皇への忠誠を説くなど、儒教の道徳思想に基づく心構えを示している条文もいくつか存在しており、中には第8条のように「役人は朝早く出仕して、遅くなってから退出しなさい」という細かいものまであります。
政務をとる者に対して、憲法十七条は和の尊重だけではなく、仏教への信仰や天皇への忠誠などといった様々な心構えを説くことで、役人としての自覚をうながす内容となっています。
それらはもちろん重要なことなのですが、憲法十七条が素晴らしいのはそれだけではありません。実は、憲法で定められた内容には、蘇我氏などの豪族に対して聖徳太子が巧妙に仕掛けた「罠(わな)」が含まれているのです。
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こうして編み出されたのが、我が国最初の成文法であるとともに、後年の法典の編纂(へんさん)にも多大な影響を与えたとされる、604年に制定された「憲法十七条」でした。憲法十七条は文字どおり17の条文に分かれていますが、このうち最も有名なのは、第1条の「和を以って貴(たっと)しとなし」で始まる部分ですね。
これは「我が国にとっては和の尊重が何よりも大事であり、みだりに争いを起こさないようにしなければならない」という意味です。似た内容の条文が最後の第17条にもあり、こちらは「物事の判断は一人では行わず、皆で話し合って決めなさい」と説いています。
この「和」や「話し合い」を重要視する姿勢は、現代に生きる我々にもつながっていると思いませんか。
聖徳太子によって説かれた精神は、私たち日本人の本質を実に的確に捉(とら)えているのです。1400年以上も昔の政治家の発想とはとても思えませんね。
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おそらくは蘇我氏も地団駄(じだんだ)を踏んで悔しがったことでしょう。それにしても、オモテの世界で堂々と大義名分を述べながら、ウラでは蘇我氏打倒のために色々と策謀(さくぼう)を練り続けるという、聖徳太子の優秀な政治家としての顔を垣間(かいま)見ることが出来るエピソードですね。
なお、冠位十二階によって当初は「大礼(だいらい、濃い赤)」の地位にいたある男性が、外交における活躍が認められ、後に最高位の「大徳(だいとく、濃い紫)」にまで出世した事実が伝えられています。
その男性こそが、後に遣隋使として大役を果たした小野妹子(おののいもこ)なのです。
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