なお、任那は「加羅(から)」もしくは「伽耶(かや)」とも呼ばれています。また、当時の朝鮮半島南部には大和朝廷の出先機関として「任那日本府(みまなにほんふ)」が置かれていたという記述が「日本書紀」などにあります。
一方、北方の高句麗も半島南部の鉄資源や先進技術を求めて南下策を進めていたことから、高句麗と大和朝廷とが交戦状態となりました。
現代のチャイナと北朝鮮との国境付近には、高さ約6mの大きな碑(ひ)が残されており、高句麗の「好太王碑(こうたいおうひ、別名を広開土王碑=こうかいどおうひ)」と呼ばれています。好太王碑は414年に好太王の子が亡き父の功績を称えて建立(こんりゅう)したものです。
碑文(ひぶん)によれば、高句麗の圧迫を受けた百済が大和朝廷に助けを求めたことをきっかけに日本の軍勢が海を渡り、百済・新羅を「臣民」扱いとした(=百済・新羅を日本に従わせた)ため、高句麗の好太王が朝廷の軍勢を倒すために兵を送りました。大和朝廷は高句麗と戦いましたが敗れ、404年に朝鮮半島から兵を引き上げています。
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