公職追放に関する一連の指示のうち、G項の「その他」が何を意味するのかが非常に曖昧(あいまい)でしたが、GHQはこれを逆手に取って、政策に反対すると思われた者を名指しで追放しました。後に内閣総理大臣を務めた鳩山一郎(はとやまいちろう)や石橋湛山(いしばしたんざん)などがその例です。
GHQによるこうした「名指しの追放」は、自分もいつ同じ目にあうか分からないという底知れぬ恐怖感を周囲に与え、自己の地位を守るために臆病になる者が増加した一方で、追放によって空いたポストには社会主義者や共産主義者、あるいはその共鳴者たちなどの左翼言論人がその大半を占(し)め、戦後の教育界や大学・マスコミなどに深く入り込みました。
公職追放令は我が国が独立を果たした昭和27(1952)年に廃止されましたが、かつて追放された人々が戻ることができなかったことから、結果として「何でも日本が悪い」という自虐(じぎゃく)史観が我が国にはびこることになってしまったのです。
また、それより以前の昭和20(1945)年10月には治安維持法・治安警察法・特別高等警察(=特高)が廃止され、徳田球一(とくだきゅういち)ら共産主義者の政治犯が釈放されました。
GHQがこのような処置を行った背景には、占領軍民政局には左翼思想の人間が多く、とりわけ民政局のホイットニー局長とケーディス次長が社会主義者であったことから、徳田らにシンパシーを抱いていたのではないかと考えられています。
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