ちなみに、仁徳天皇陵の周囲に堀をめぐらせているのは、陵墓が大規模なものであることから大雨が降れば大量の土砂が流れ込む可能性があり、それを防ぐためという、いわば当然の理由があります。
これらのことは、古代から現地の土木事業にかかわってきた一般国民からすれば「空気のように当たり前のこと」でした。ところが、机上の理論を振りかざした「頭の良い」学者たちは、世間の常識よりも自分たちの考えを優先させますから、戦後になって「常識では考えられない学説」がまかり通るようになりました。
記紀などの伝説を否定する彼らによって、古墳はいつしか「権力者による支配の象徴」とされたばかりか、ついには仁徳天皇のご存在までが否定され、多くの歴史教科書で「大仙陵(だいせんりょう)古墳」と書かれている有様です。
このような一方的な歴史観を見直し、我が国の本当の歴史を取り戻すことこそが「日本創生」につながるのではないでしょうか。ちなみに、仁徳天皇陵は5世紀中頃に築造されたと推定されていますが、先述した長浜浩明氏の著書である「古代日本『謎』の時代を解き明かす」によれば、仁徳天皇の崩御は西暦428年となり、辻褄(つじつま)が合います。
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このことから、仁徳天皇は「自分の天皇陵の建設に際して国民を強制的に労働させた人物」と否定的にとらえた見方をする人物もあるようですが、私に言わせれば、そんな人物こそが「机上(きじょう)の空論を振りかざす愚か者」でしかありません。
なぜそう断定できるのでしょうか。そのカギを握るのは「土木事業によって生み出された『あるモノ』」です。
当たり前のことですが、大規模な土木工事を行えば必ず大量の土砂が出ます。これらの土砂は、現代であればダンプカーなどに乗せて港湾の埋め立て工事に使ったりしますが、大昔にはそんな便利なものはありませんから、計画的にどこかに「盛(も)り土(つち)」することになります。
実は、古墳はこの盛り土を上手に活用してつくられたものなのです。だからこそ当時の古墳は平野部にしかなく、また仁徳天皇の場合は土木事業が大規模であったことで大量の盛り土が発生していたからこそ、世界最大級の陵墓となったのです。
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ところで、仁徳天皇の善政は「民のかまど」のエピソードだけではないことを皆さんはご存知でしょうか。実は、以下のような輝かしい業績を残されておられるのです。
1.難波(なにわ)の堀江(ほりえ)を開削(かいさく)したこと
2.茨田堤(まんだのつつみ、現在の大阪府寝屋川市付近)を築造したこと
3.山背(やましろ、後の山城)の栗隈県(くるくまのあがた、現在の京都府城陽市西北~久世郡久御山町付近)に灌漑(かんがい)用水を引かせたこと
4.茨田屯倉(まむたのみやけ、屯倉とは天皇の直轄領のこと)を設立したこと
5.和珥池(わにのいけ、現在の奈良市付近か)や横野堤(よこののつつみ、現在の大阪市生野区付近)を築造したこと
6.灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、現在の大阪府南河内郡河南町付近)を掘削(くっさく)し、広大な田地を開拓したこと
7.紀角宿禰(きのつののすくね、武内宿禰=たけのうちのすくねの子)を朝鮮半島の百済(くだら)へ遣(つか)わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録したこと
国民の幸福を常に願われた仁徳天皇は、彼らが飢(う)えないように農地を確保し、また治水(ちすい)を行って水害を防ぐなど、その在位中に大規模な土木工事を何度も行われました。これらの大事業によって国が豊かになり、国民は天皇に深く感謝したからこそ、崩御後に巨大な陵墓(りょうぼ)をつくったのです。
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「朕(ちん)はすでに富んだ。喜ばしいことだ」。
天皇のお言葉に対し、皇后陛下は怪訝(けげん)そうに仰られました。
「宮殿のあちこちが崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだと言えるのですか」。
皇后陛下のお言葉に対して、仁徳天皇は微笑(ほほえ)みしながら仰られたそうです。
「国は民(たみ)が本(もと)である。その民が富んでいるのだから、朕も富んだということなのだ」。
この後、天皇はさらに3年ものあいだ引き続き税を免除され、6年後にようやく税を納めさせるとともに、宮殿の修理をお許しになりました。すると、仁徳天皇の善政に感謝していた多くの国民が誰に強制されるわけでもなく自ら進んで修理をはじめ、あっという間に立派な宮殿ができあがったと伝えられています。
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古代の天皇には、高いところにのぼって国を見渡し、その様子を褒(ほ)め称(たた)えることによって、天皇のお言葉で国を良くするという「国見(くにみ)」の風習がありました。ある日のこと、仁徳天皇は難波高津宮(なにわのたかつのみや)から人家(じんか)を眺(なが)められた際に、かまどから煙が立ちのぼっていないことに気が付かれました。
「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないからではないか。都ですらこうなのだから、地方はなおひどいことであろう」。そう思われた仁徳天皇はすぐさま3年間税を免除され、宮殿の屋根が傷んでもそのままにされていました。
やがて3年が経ち、改めて宮殿から外を眺められると、人家のあちこちのかまどから煙が立ちのぼっていました。国民が食事をできるようになって良かったと天皇は満足げにその様子を見つめられるとともに、以下の御製(ぎょせい、天皇による和歌のこと)をお詠(よ)みになったと伝えられています。
「高き屋(や)に のぼりて見れば 煙(けぶり)立つ 民(たみ)のかまどは にぎはひにけり」
以上は有名な「民のかまど」のエピソードですが、実はこの話には続きがあります。
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古墳時代も中期に入った5世紀前半には、大阪府羽曳野市(おおさかふはびきのし)にある応神天皇陵(おうじんてんのうりょう)や、大阪府堺市堺区にある仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)などの巨大な前方後円墳がつくられました。なお、最近の教科書では応神天皇陵のことを「誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳」、仁徳天皇陵のことを「大仙陵(だいせんりょう)古墳」と記しています。
これらの古墳は平野の中に墳丘を盛り上げ、周囲に濠(ほり)をめぐらせた構造をしていますが、なかでも仁徳天皇陵は全長約486mと世界最大級の墳墓(ふんぼ)となっています。また、応神天皇陵も全長約425mと全国第2位の規模を誇(ほこ)っています。
古墳時代の中期の副葬品は、それまでの呪術的な性格のものが姿を消し、鉄製の刀剣や甲冑(かっちゅう)あるいは馬具(ばぐ)などの武器や武具が多くなりました。このことから、当時の被葬者に政治的・軍事的支配者としての性格が強まったと考えられます。
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このことから、当時の古墳の被葬者(ひそうしゃ)は宗教的な力で政治を行っていたと考えられています。
3世紀後半といえば、邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)が亡くなる前後の頃ですね。「魏志」倭人伝(ぎしわじんでん)によれば彼女は鬼道(きどう)、つまり呪術的な力で国を治めていたとされていますから、前期の古墳の特徴と辻褄(つじつま)が合います。
なお、3世紀後半につくられたとされる奈良県桜井市にある箸墓(はしはか)古墳は全長約280mもある我が国最古クラスの前方後円墳ですが、卑弥呼の墓ではないかとする説もあるようです。ちなみに、箸墓古墳は纒向(まきむく)遺跡の箸中(はしなか)地区に位置しており、纒向遺跡からは3世紀前半頃の大型建物跡が発見されています。
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なお、古墳が盛んにつくられた3世紀後半から7世紀頃にかけて特に古墳時代と呼び、古墳の分布・様式・副葬品(ふくそうひん)などから前期(3世紀後半~4世紀中頃)・中期(4世紀末~5世紀)・後期(6世紀~7世紀)に分けられています。
3世紀後半の頃の古墳は前方後円墳という独特の形をしており、内部には木棺(もっかん)を竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)や木棺の周りを粘土でつつんだ粘土槨(ねんどかく)がつくられました。
古墳の墳丘上には埴輪(はにわ)が並べられました。埴輪は素焼(すやき)の焼き物で、前期には円筒(えんとう)埴輪や家形(いえがた)埴輪などが用いられました。また、墳丘の表面には葺石(ふきいし)が敷(し)かれました。
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終戦から20年以上が経った昭和41(1966)年、当時の佐藤栄作(さとうえいさく)内閣によって「建国記念日を祝日として設ける」と規定した祝日法の改正案が可決されると、学識経験者などからなる審議会を設置し、半年にわたる論議の後に「建国記念の日を2月11日とする」という政令を発したことで、かつての紀元節が昭和42(1967)年からようやく国民の祝日として復活しました。
ちなみに、当時発表された世論調査によれば「2月11日を建国記念の日とする」案が全体の5割近くを占(し)めるなど、国民から圧倒的な支持を得ていたそうです。
なお「建国記念の日」が「建国記念日」ではないのは,史実に基づく建国の日とは関係なく,建国されたという事象そのものを記念する日であるという考えによるものであるとされ、祝日制定に断固として反対した当時の日本社会党(現在の社会民主党)を納得させるためだったそうです。
祝日制定からすでに半世紀以上が経過したのですから、GHQによる洗脳状態から真に脱出するためにも、改めて「建国記念日」として国民がこぞって祝うことができるように法律の改正を求めていくべきではないでしょうか。
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また、ご即位の日は十干十二支(じっかんじゅうにし)で辛酉(しんゆう、別名を「かのととり」)の年の1月1日と伝えられており、日本書紀では、先述のとおり神武天皇のご即位の年を紀元前660年に定めています。
現在、神武天皇が即位されてから約2680年が経ちましたが、これを皇紀(こうき)ともいい、例えば令和5(2023)年は皇紀2683年にあたります。また、現在の建国の日である2月11日は、神武天皇のご即位の日である1月1日が旧暦であるため、現在の暦に修正したものです。
神武天皇による建国のご意思は、長いあいだ我が国の理想として絶えることなく伝承され続け、明治時代には「紀元節」として祭日となり、大東亜戦争の終戦後も、昭和23(1948)年の前半頃までは官庁や学校で祝典が開催されていました。
しかし、GHQの命令によって新たに国会で祝日法を制定することになった際に、日本人が心を一つにして国の誕生日を祝うことが日本人の団結心をもたらすとともに、占領に悪影響が出ることが予想されたため、紀元節が一方的に廃止されてしまったのです。
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