239年に卑弥呼が魏に使者を遣わすと、皇帝より「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印を授けられ、多数の銅鏡(どうきょう)などが贈られました。卑弥呼は晩年、狗奴国(くなこく)の男王である卑弥弓呼(ひみくこ)と争った後に死亡し、後継として男の王が立つと国内が乱れました。
その後、卑弥呼の一族の女性である壱与(いよ、別名として台与=とよ)を新しい王として立てると、争いはようやく治まったそうです。ちなみに「壱与」の名は「魏志」倭人伝では「壹與(=壱与)」と記されていますが、その後に書かれた別のチャイナの歴史書には「臺與(=台与)」と記されています。
そして266年、魏のあとを受けた晋(しん)の首都である洛陽(らくよう)に倭国の女王が使者を遣わしたと「晋書(しんじょ)」に書かれたのを最後に、約1世紀のあいだ、倭に関する記載はチャイナの歴史書から姿を消します。これは、その後の中国大陸で政治的混乱が続き、歴史書をまとめる余裕がなかったからではないかと考えられています。
なお、邪馬台国の記載がある「魏志」倭人伝の内容に関しては様々な解釈があり、現代でも研究や論争が続いています。また、邪馬台国の位置についても九州説と畿内(きない)説(=近畿説)があり、いまだに決着がついていません。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。