昭和天皇の無私のご行動によって、皇室を中心とする我が国の国体(=国家としての体制のこと)を護ることはできました。終戦の直前、昭和天皇による2度目のご聖断が下った際に、慟哭(どうこく)した阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣に対して、陛下がお優しく「私には国体を護れる確信がある」と仰られたとおりとなったのです。
もしマッカーサーとのご会見の際に、昭和天皇が他の一般的な国家元首のように、命乞いをする哀れな君主であったとすれば、その後の我が国の運命はどうなったでしょうか。考えただけでも私は寒気がしてきます。
ただし、我が国が皇室中心の国体を護れた一方で、GHQによる日本の占領統治は過酷を極めたものとなっていきました。占領軍による数々の「日本解体」あるいは「洗脳」は、その後の我が国における「自虐(じぎゃく)史観」を決定づけるものであったといえますが、その具体的な内容はどのようなものであったのでしょうか。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
昭和天皇のお言葉を聞いたマッカーサーは「われ、神を視(み)たり!」と大いに感動して、それまで陛下の前で椅子に座り、足を組んでパイプをくわえたままの姿勢からやおら立ち上がると、抱きつかんばかりに陛下と握手を交わしました。なお、マッカーサーは後に当時の心境を「この瞬間、私の前にいる天皇が日本の最上の紳士であることを感じとった」と述懐(じゅっかい)しています。
会見が終了して昭和天皇がお帰りになる際には、マッカーサーは自ら玄関まで出て陛下を見送りました。たった一度の会見だけで、マッカーサーは陛下のお人柄の虜(とりこ)となってしまっていたのです。
マッカーサーの態度を豹変(ひょうへん)させたのは、昭和天皇が強く感じておられた戦争に関する責任のお気持ちでした。大東亜戦争の開戦そのものは、大日本帝国憲法(=明治憲法)の規定に従って手続きが進められ、昭和天皇は閣議決定の裁可をそのままお認めになられただけでした。
立憲君主制の原則から見ても、昭和天皇に直接の戦争責任があるとは到底認められないものでしたが、その一方で、陛下はご自身のお力で戦争を防ぐことができなかった「道義的責任」を強く感じておられました。だからこその「戦争責任のすべてはこの私にある」というお言葉だったのです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
大東亜戦争終結から約1か月が経った昭和20(1945)年9月27日、昭和天皇は連合国軍最高司令官総司令部(=GHQ)のマッカーサー元帥(げんすい)と会見されるため、アメリカ大使の公邸へと向かわれました。マッカーサーは陛下(へいか)を玄関で出迎えることもなく、会見場となった迎賓室(げいひんしつ)で待機していました。
この当時、マッカーサーは「戦争終結後に日本軍が速やかに武装解除に応じたのは、天皇が出した勅令(ちょくれい、天皇が発した法的効力のある命令のことであり、ここでは「終戦の詔書(しょうしょ)」を意味する)があったからだ」という事実を耳にしていたこともあり、昭和天皇を戦争犯罪人とするかどうかを慎重に検討していました。
しかし、同時にマッカーサーは昭和天皇との会見に不安を感じていました。もし天皇が自分に対して命乞(いのちご)いをするような人物であったら、やはり戦犯として裁かざるを得ないのでは、と考えていたのです。
マッカーサーがそう思うのも無理はありませんでした。そもそも戦争に敗北した国の元首の末路は、亡命や自殺、あるいは市井(しせい)の人間として不遇な人生を終え、その血は途絶えてしまい、全く新しい王朝に取って代わるのが当然だったからです。
ところが、昭和天皇がマッカーサーに対して発せられたお言葉は、彼の不安を打ち消すどころか、想像すら及ばないものでした。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
239年に卑弥呼が魏に使者を遣わすと、皇帝より「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印を授けられ、多数の銅鏡(どうきょう)などが贈られました。卑弥呼は晩年、狗奴国(くなこく)の男王である卑弥弓呼(ひみくこ)と争った後に死亡し、後継として男の王が立つと国内が乱れました。
その後、卑弥呼の一族の女性である壱与(いよ、別名として台与=とよ)を新しい王として立てると、争いはようやく治まったそうです。ちなみに「壱与」の名は「魏志」倭人伝では「壹與(=壱与)」と記されていますが、その後に書かれた別のチャイナの歴史書には「臺與(=台与)」と記されています。
そして266年、魏のあとを受けた晋(しん)の首都である洛陽(らくよう)に倭国の女王が使者を遣わしたと「晋書(しんじょ)」に書かれたのを最後に、約1世紀のあいだ、倭に関する記載はチャイナの歴史書から姿を消します。これは、その後の中国大陸で政治的混乱が続き、歴史書をまとめる余裕がなかったからではないかと考えられています。
なお、邪馬台国の記載がある「魏志」倭人伝の内容に関しては様々な解釈があり、現代でも研究や論争が続いています。また、邪馬台国の位置についても九州説と畿内(きない)説(=近畿説)があり、いまだに決着がついていません。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
「三国志(さんごくし)」の「魏志」倭人伝(「ぎし」わじんでん)によると、2世紀後半から倭国では大きな争乱が続きましたが、邪馬台国の女王である卑弥呼(ひみこ)が諸国の同意によって立つと争乱が治まり、30か国ほどを従えた連合政権が生まれました。
卑弥呼は鬼道(きどう)に優れ、宗教的な権威によって国を治めました。また邪馬台国は大人(たいじん)や下戸(げこ)などの身分差があり、ある程度の統治組織や租税・刑罰の制度も整った国であったとされています。
なお、邪馬台国や卑弥呼は「倭」と同じくチャイナの当て字で、それぞれ「大和(やまと)の国」「日(ひ)の巫女(みこ)」がなまって伝わったと考えられています。また、鬼道については様々な説があり、呪術あるいは祈祷(きとう)ではないかともいわれています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なお、「倭(わ)」はチャイナの当て字で、なぜ我が国にその名がつけられたかについては様々な説があり、日本人が大切にする「和」を由来とするという考えもあります。
前漢のあとを継いだ後漢(ごかん)の歴史を記した「後漢書」東夷伝(「ごかんじょ」とういでん)には、紀元57年に倭の奴国(なこく)王が後漢の首都である洛陽(らくよう)に使者を遣(つか)わして、当時の光武帝(こうぶてい)から印綬(いんじゅ)を授かったことが、続いて107年には倭国王が生口(せいこう)160人を安帝(あんてい)に献上したことが記されています。なお、生口とは奴隷(どれい)を意味していると考えられています。
奴国は今の福岡市付近にあった小国の一つとされ、同市の志賀島(しかのしま)から奴国王が光武帝から授かったとされる「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印(きんいん)が江戸時代に発見されています。
この時期にチャイナとの外交が増加したのは、北九州から西日本の各地に分立した小国の統一者たちが、チャイナの支援をとりつけることで周辺の諸国よりも優位に立とうとしたからだと考えられており、現代に残る弥生時代の埋葬施設からチャイナの鏡や武器が発見されているのも、こうした事情を物語っていると思われます。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
集落同士の争いは、より強い集落が周辺のいくつかの集落を統合してさらに強大になっていくという効果をもたらし、強大な集落はやがて「クニ」あるいは「小国(しょうこく)」と呼ばれる政治的なまとまりと化しました。
ところで、当時のチャイナの歴代の皇帝は、自国こそが政治や思想あるいは文化の中心であり、他の地域はすべて劣っていると見なしていました。これを「中華思想」といいます。
皇帝は周辺民族の長に対して自己に従うことを求め、逆らえば有無を言わさずに滅ぼしました。こうした力関係のもとで、服属した長には「王」などの称号を与えて現地の支配を認めるかわりに、自己を支配者として尊敬させる(=君臣関係を結ぶ)という、いわゆる「朝貢(ちょうこう)関係」を強制しました。
このような体制を「冊封(さくほう)」といい、古代の東アジアの国際秩序たる「華夷(かい)秩序」が構成されたと考えられています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
一方、日本文明は伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)のように、物質に根拠を置かず、ある精神のかたち(木で全く同じものを20年ごとに新しく作り直すことを1000年以上も続ける)を今もなお続けている「生きた文明」です。
世界にこのような文明は、昔は他にもあったのかもしれませんが、今は我が国にしかありません。
先述したように、縄文土器は世界一古い土器ですし、また世界一古い磨製石器も出土しているのですから、日本文明をもたらした我が国は「特別の土地」であると考えたほうが自然かもしれません。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
しかし、我が国における青銅器や鉄器の技術の進歩は目覚ましく、多くの鉄製農工具や武器、あるいは青銅製祭器がつくられたのは先述したとおりです。
つまり、我が国は外国の文化をありのままに受けいれるのではなく、日本流にアレンジしてさらに発展させるという優れた技術を昔から持っているのです。例えば、8世紀初頭までにチャイナの律令(りつりょう)制度を導入しても、しばらくしてから公地公民の原則を破って土地の私有を認めたり、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)など律令に規定のない令外官(りょうげのかん)を数多く設置したりしました。
この他にも、16世紀に我が国に伝来した鉄砲をあっという間に大量生産することで、わずか半世紀後には世界最大の鉄砲所有国になりましたし、20世紀に飛行機が発明されると、これも半世紀足らずで世界最高水準の戦闘機である零戦(ゼロせん、零式艦上戦闘機)を開発するなど、例を挙げればキリがありません。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なぜなら、ユーラシア大陸は原則として地続きですから、やろうと思えばどこまででも遠征できるのであり、歴史的事実として、紀元前4世紀にマケドニアのアレクサンドロス大王がエジプトやペルシャを征服し、インダス川流域にまで広がる大帝国を築いています。
もし食料や財産を奪(うば)われないようにしようと思えば、自分の身は自分で守らなければいけませんし、また相手の食料や財産を奪おうと思えば、確実に奪えるように準備する必要があります。だからこそ、優れた技術や文化を持つ流れが自然と生まれたのであり、実に皮肉な話でもあります。
一方、我が国は島国ですから、基本的に外敵が攻めてくることもないし、また縄文時代のように人口に比べて食料が豊富にあれば、他の地域から奪うこともありません。要するに平和であったことから、技術や文化を発達させる「必要がなかった」だけなのです。
考えてみれば、人々の生活の発展には水や植物などの自然の存在が欠かせませんが、世界四大文明がいずれも河川の近辺から文化が栄えているなど、乾いた土地が多くて植物が育ちにくい環境に比べて、水源や山林が豊富にある我が国が大変恵まれているのがよく分かりますね。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。