弥生土器は主として煮炊き用の甕(かめ)や貯蔵用の壺(つぼ)、食物を盛る鉢(はち)や高杯(たかつき)などに用いられました。
ところで、弥生土器の名称は、明治17(1884)年に東京市本郷区向ヶ岡弥生町(とうきょうしほんごうくむこうがおかやよいちょう)(現在の東京都文京区弥生二丁目)の向ヶ岡(むこうがおか)貝塚で、今までにない様式の壷が発見されたことに由来します。
なお、最初に土器が発見された向ヶ岡貝塚を含む地域は、現在では「弥生二丁目遺跡」という名で史跡(しせき)に指定されています。
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ただし、先述のとおり日本列島で水稲耕作が行われたのは今から約3000年前(紀元前10世紀頃)という見解も存在します。また、弥生文化の及んだ地域は日本列島のほぼ全域に及んだ縄文文化とは異なり、東北地方から九州南部までに留まりました。
なぜなら、北海道の気候が水稲耕作に適さなかったからです。北海道では狩猟や漁労に基礎をおき、サケやマスなどを採集する続縄文文化が続き、7世紀以降には擦文(さつもん)土器を伴う擦文文化や、オホーツク土器を伴うオホーツク文化が成立しました。
一方、沖縄などの南西諸島では貝類などを採集する南島(なんとう)文化(=貝塚文化)が栄えましたが、こうした北海道や南西諸島の文化は漁労・狩猟に基礎を置く文化でした。
水稲耕作の開始によって、人々の生活は食物採取から食物生産への段階へと入っていきました。すなわち、それまでは狩猟・漁労などの自然環境に依存(いそん)する生活から、水稲耕作が可能となったことによって、食糧を計画的に生産できる安定した経済生活へと移っていったのです。
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なお、始皇帝の「始」は「最初(一番目)」の意味であり、始皇帝の後継者はその称号を一部受け継ぎ、世代が下がるごとに「二世皇帝」「三世皇帝」という称号を受けることとされました。また、国号の「秦」は英語の「China(チャイナ)」の語源であり、中国大陸の周辺の海洋を「東シナ海」「南シナ海」と呼ぶのも、秦の名前が由来となっています。
また、始皇帝の墓の付近から「兵馬俑坑(へいばようこう)」が発見され、兵士や馬をかたどった等身大の焼き物の人形である兵馬俑が、始皇帝の墓のそばに整然と並べられています。
漢は大陸統一後も勢力の拡大を続け、武帝(ぶてい)の紀元前108年には朝鮮半島北部を中心とする地域を直轄地(ちょっかつち)とし、楽浪郡(らくろうぐん)以下の四郡を置きました。その後も大陸周辺で何度も戦乱が繰り返されたことで、周辺の諸民族は漢の影響を強く受けることになります。
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紀元前16世紀頃に黄河流域で成立した殷(いん)という王朝ではすでに青銅器(せいどうき)の鋳造(ちゅうぞう)が始まり、紀元前6世紀頃には青銅器にかわって鉄器が普及し始め、農業生産の進歩による生産力の上昇を基礎として高度の文明が発展しました。
なお、青銅器とは銅と錫(すず)を混ぜた合金(ごうきん)である青銅で作った金属器のことです。銅は古くから発見されていましたが、それだけでは硬さに難がありました。しかし、錫を混ぜることで格段に硬度が増したことから、やがて青銅器が大いに用いられるようになりました。
なお、出来たての青銅器は含まれた錫の量によって黄金(こがね)色あるいは白銀(はくぎん)色となりますが、年数が経つにつれ大気中で酸化されて緑青(ろくしょう)色になることから「青銅」と呼ばれました。ちなみに、我が国の10円硬貨も銅に微量の錫や亜鉛(あえん)を加えた青銅で出来ています。
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縄文時代の平均寿命は男女ともに約30歳と推定されており、現代とは比較にならないくらい厳しい時代でした。これらの土製品は、病気などによって早世した子供の足形や手形を埋葬前にかたどった可能性があります。
足形や手形には小さな穴が開いているものもありました。これらは副葬品として埋葬されていることから、生前に紐(ひも)を通して竪穴住居の中に吊るし、我が子の面影とともに暮らした親が亡くなった際に、我が子の形見とともに永遠の眠りについたのかもしれませんね。
なお、これらの土製品が作られた理由としては、子より親が先に亡くなった場合に親の墓に副葬した説や、子供の健やかな成長を願って作った説、あるいは祭祀用など様々な説があります。
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平成11(1999)年、岡山県岡山市の朝寝鼻(あさねばな)貝塚の土壌(どじょう)から発見された栽培種のイネの細胞化石が、いわゆる「プラントオパール分析法」によって今から約6000年前のものであることが分かりました。その後も30か所を上回る縄文遺跡からプラントオパールが発見されたことで、縄文時代において、すでに稲作が行われていたことが明らかになったのです。
もっとも、当時の稲作は焼畑(やきはた)耕作あるいは畑で栽培される陸稲(おかぼ、または「りくとう」)でしたが、佐賀県唐津(からつ)市の菜畑(なばたけ)遺跡などの出土物を「放射性炭素年代法(炭素14年代測定法)」などで測定した結果、日本列島で水稲耕作が行われたのが今から約3000年前(紀元前10世紀頃)であったことを、国立歴史民俗博物館の研究チームが平成15(2003)年に発表しました。
このことから、近年では縄文時代の終わりを紀元前10世紀頃とする説もあるようです。いずれにせよ、我が国の技術の素晴らしい先進性がうかがえる事実ですね。
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また、死者の多くが手足を折り曲げて埋葬する方式で屈葬(くっそう)されており、これは死者の霊が生存者に災いを及ぼすことを防ぐためと思われます。
なお、縄文時代の頃には集落の中の共同墓地に埋葬されるのが一般的であり、また個人的な富の蓄積を示すような多数の副葬品が特定の人物に見られることもないことから、縄文時代の人々には貧富あるいは階級の差が大きくなかったと推定されています。
我が国の縄文文化は狩猟・漁労・採取を中心とした文化のみならず、多彩な呪術用具を使用するという精神面でも充実しており、また弓矢などの新技術や道具の発達、黒曜石の分布に見られる活発な交易活動や優れた航海術など、世界的にも引けを取らない高度な発達をとげた文化の一つといえるでしょう。
はるかに遠い祖先である縄文時代の人々が世界的にも高度な文化を持っていたという事実に、私たちは悠久(ゆうきゅう)の歴史と太古(たいこ)のロマンを感じることができますね。
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要するに、我が国は縄文時代の頃から独自の文明の源泉があったことが明らかになったのです。そして、そんな縄文時代の頃から、我が国独自の慣習がありました。
日本列島は伝統的に自然環境が厳しく、しばしば災害が発生していました。このため、縄文時代の頃から、人々の多くがあらゆる自然現象や自然物に霊が宿ると考えて、畏(おそ)れていました。これをアニミズムといいます。人々は呪術(じゅじゅつ)によって災いを避け、豊かな収穫などの自然の恩恵を祈りました。
当時の呪術的風習を示す遺物に、女性をかたどった土偶や男性を象徴する石棒(せきぼう)などがあります。このうち土偶はハート型やミミズク型・遮光器(しゃこうき)型などがある土製の人形です。縄文時代の人々は、おそらくは病気からの回復や子孫の繁栄(はんえい)あるいは豊かな実りある生活や魔除けなどの目的のためにこれらを使用したのでしょう。
こうした信仰は、水稲耕作の発達によって集団生活が当たり前となった弥生(やよい)時代にも受け継がれ、あらゆる人間集団の中心に「全員のために集団が栄え、幸せになるように祈ってくれる存在」が必要であることを理解するようになりました。実は、この信仰が現代の天皇のご存在のルーツとなっています。
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遺跡内の集落の大きさや、遺物や住居跡の多さから、一時期に数百名が生活したともいわれ、また近くに産出しないヒスイや黒曜石などの物資の存在から、交易も盛んに行われていたなど様々な新発見がありました。
三内丸山遺跡の発掘調査の結果、縄文時代の人々は海や森からの自然の恵みを巧(たく)みに組み合わせることによって、同じ集落で安定した生活を送っていたことが分かりました。これらの発見によって縄文時代に関する教科書の記載が書き換えられ、現在のように「豊かで安定した生活」となったのです。
遺跡の発掘調査など、新たな発見によってそれまでの「歴史の常識」が覆(くつがえ)されるのは決して珍しいことではありません。むしろ、それが正当であると認められるのであれば、正しい歴史を知るためにも大いに書き換えられるべきではないでしょうか。
もっとも、特定のイデオロギーあるいはプロパガンダを理由に事実や経緯を無視して歴史を「改竄(かいざん)」するという愚かしい行為は断じて認められませんが。
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なぜここまで教科書の記述が変わったのでしょうか。その背景には遺跡の発掘調査による新たな発見がありました。
青森県青森市の南西の大地に位置する三内丸山(さんないまるやま)遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡として知られています。
遺跡はすでに江戸時代から知られていましたが、県営野球場建設に先立って平成4(1992)年から行われた発掘調査によって、前例のない巨大な集落跡が姿をあらわしたほか、膨大(ぼうだい)な量の土器や石器などの生活関連遺物や、後述する土偶(どぐう)などの祭祀(さいし)に関する遺物が出土しました。
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