私が高校生の頃、縄文時代の文化は以下のように記述されていました。
「当時の人々は、弓矢や石槍・落とし穴などを用いて動物を捕えた。また、水辺では貝をとったり、釣り針などの骨角器で魚をとったり、木の実を採集したりするなど、自然条件に応じた様々な食料獲得の技術をもっていた」。
「縄文時代は狩猟・漁労・採集の段階にとどまり、生産力が低かった。動物や植物資源の獲得は自然条件に左右されることが多く、人々は不安定で厳しい生活を送っていたことが考えられる」。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
一つの住居には一つの家族が住み、数件の竪穴住居が寄り合って形成された集落に30~50人前後の人々が住んでいたと考えられています。
縄文時代の集落では基本的に自給自足の生活を送っていましたが、石鏃の材料になる黒曜石やサヌカイト(別名を讃岐岩=さぬきがん)、装身具用のヒスイ(別名を硬玉=こうぎょく)などの不足する物資はかなり遠方の集団との交易で手に入れていました。
なぜそんなことが分かるかというと、例えば黒曜石は旧石器時代でも述べたように火山帯でしか産出しないなど、これらはいずれも生産地が限られているにもかかわらず、全国の遺跡で発見されているからです。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
その他にも網(あみ)を用いた漁も行っていました。また、丸木舟も各地で発見されており、八丈島(はちじょうじま)や伊豆諸島に渡るなどの航海術も身に着けていたようです。なぜなら、前述した島々にも縄文時代と見られる遺跡が残っているからです。
植物性食料としては、ドングリ・クリ・クルミなどの木の実や、ヤマイモなどの根茎類(こんけいるい)が主に採集され、木の実をすりつぶすには石皿やすり石が、根茎類を掘り起こすためには打製の石斧が使われていました。集められた食料は、集落の一角に設けられた貯蔵穴(ちょぞうけつ)に保存されました。
なお、縄文時代の晩期には水稲(すいとう)耕作(=水稲農耕)が行われた可能性が高いですが、これについては後述します。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
魚類のほかにも貝類の採集が活発化しました。縄文時代の遺跡には、人々が食べた貝の貝殻(かいがら)などが堆積(たいせき)してできた貝塚(かいづか)が数多く残されています。貝塚からはクジラやイルカの骨が見つかっており、縄文時代の人々が共同生活を行っていたことが想定されました。なぜなら、クジラのような大きい動物をとらえようとすれば、多くの人々の共同作業が欠かせないからです。
また、縄文時代の代表的な貝塚として、明治10(1877)年に横浜に上陸したアメリカ人の動物学者であるモースが横浜から新橋へ汽車で向かう途中、大森(おおもり)駅を過ぎてすぐの崖(がけ)に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見し、後に政府の許可を得て発掘調査を行った東京都の大森貝塚が知られています。
なお、後に研究結果をまとめたモースが、貝塚で発見された土器に縄目の文様がついていたことから土器を「cord marked pottery(=縄文土器)」と命名したのが、今日用いられる「縄文」の名前の由来です。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
また、植物の煮炊(にた)きや食物を貯蔵する目的で土器が用いられ始め、人々の食生活は格段に豊かになりました。この時代の土器は、厚手で黒褐色(こっかっしょく)のものが多く、また低温で焼いているためにもろいものが多いのが特徴で、その形も初期から後期にかけて大きく変化しています。
これらの土器は縄目の文様(もんよう)をつけているものが多いことから縄文土器と呼ばれました。縄文土器と磨製石器が使われた約16000年前から紀元前4世紀頃までを縄文時代といい、その文化を縄文文化と呼びます。
ちなみに、強い渋みのあるドングリなどの木の実や植物の根などは、いわゆる「あく抜き」をする必要がありますが、縄文時代の人々は早くからその技術を持っていたと推定されています。
なお、青森県の大平山元I(おおだいやまもといち)遺跡で平成10(1998)年に行われた発掘調査によって複数の土器片(どきへん)が見つかりましたが、この土器片を「放射性炭素年代法(炭素14年代測定法)」で調査した結果、今から約16500年前のものであることが翌平成11(1999)年に判明したことで、先述のとおり我が国の縄文文化における土器の技術が世界最古クラスであることが明らかになっています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
我が国が大陸と海で隔(へだ)てられたという地理的環境は、中国大陸や朝鮮半島と近い距離にあったために文化的交流が行われ、大陸の文明の影響を受ける一方で、日本列島に独自の歴史と文化を生み出し、育てるという効果をもたらしました。なぜなら、海という天然の防壁が、大陸の政治や軍事情勢に巻き込まれたり、あるいは異民族が大挙して侵入したりするようなことから守ってくれたからです。
現在に近い自然環境になったことで、旧石器時代に存在した大型動物が絶滅して動きの早いニホンシカやイノシシのような中小動物が多くなり、植物も亜寒帯性の針葉樹林から落葉広葉樹林に変わり、ドングリやクリなどが実るようになったほか、九州地方からはシイなどの照葉(しょうよう)樹林も広がりを見せました。
それまでの大型動物は身体が大きく動きが鈍(にぶ)かったので、人間が石槍などを使って獲物を捕まえることが可能でしたが、すばしっこい中小動物は走って追いかけていくのが大変だったことから、遠くの獲物でも捕まえやすいように弓矢が使用されるようになりました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
これらのうち、日本の旧石器時代では打製石器を使用していたとされ、通常の学習もしくは将来の大学あるいは高校入試などに関してはそのように覚えて差し支(つか)えありません。
しかし、実は岩宿遺跡で刃先(はさき)に磨きをかけた石斧である「局部磨製石斧」と呼ばれる世界最古(約35000年前)の磨製石器が発見されています。
要するに、我が国からは世界最古クラスの磨製石器が出土しているのです。しかも、それだけではなく縄文(じょうもん)土器も同じく世界最古クラスであることが分かっています(詳しくは後述します)。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
発掘された石器が約35000年前~25000年前のものと判明したことによって、我が国にも考古学上の旧石器時代が存在したことが明らかになり、その後も全国で発掘調査が行われた結果、今では全国で10000か所以上の旧石器時代の遺跡が発見されています。
なお、全国での発掘調査の結果、日本人の起源を知るうえで重要な手がかりとなる人骨も発見されており、約18000年前の静岡県の浜北人(はまきたじん)や約22000年前の沖縄県の港川人(みなとがわじん)のほか、沖縄県石垣島(いしがきじま)の白保竿根田原洞穴(しらほさおねたばるどうけつ、または「しらほそねたばるどうけつ」)遺跡からは約27000年前の人骨が発見されています。
ちなみに、相沢氏が発掘した打製石器は黒曜石(こくようせき)で出来ていました。黒曜石は槍先やナイフなどの鋭い刃(は)を持つ道具をつくる重要な材料でしたが、火山帯でしか産出しないなど生産地が限られていることから、当時からすでに広い地域を結ぶ交流があったことが分かります。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
やがて、北からはマンモスやヘラジカが、南からはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型動物が行き来するようになり、それらの群れを追ってやって来た人々が約40000年前頃から日本列島に住み着き、現代の日本人の祖先になったと考えられています。
当時の人々は小さな集落をつくり、打製石器やそれを使ってつくった道具などを用いて、動物を集団で落とし穴や沼地などに追い込んだりして獲物(えもの)を捕るなどの狩猟や漁労(ぎょろう)、あるいは植物性食料の採取(さいしゅ)の生活を営んでいました。
なお、当時の主な打製石器としては、刺突具(しとつぐ)または刃物と考えられるナイフ形石器や槍先(やりさき)となる尖頭器(せんとうき)、刃部(じんぶ)を部分的に研磨(けんま)した石斧(せきふ)、あるいは極めて小さい石器を木や骨の柄(え)にはめこんで組み合わせて使う細石器(さいせっき)などがあります。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。
なお、死者を埋葬したと考えられるのは、人骨とともに大量の花粉が発見されているからです。旧人はヨーロッパから西アジアにかけて住み、氷期に適応した生活を送りました。
その後、約20万年前のアフリカに現在の人類の直接の祖先となる新人(しんじん)が現れました。別名を「ホモ・サピエンス(=知恵のある人)」とも呼ばれる新人は、現代ヨーロッパ人の祖先とされるクロマニョン人が知られています。
新人は約10万年前にアフリカから出て、アメリカ大陸を含むほぼ全世界に住み着くようになりました。彼らが描いたとされるフランスのラスコーやスペインのアルタミラなどの洞窟壁画はユネスコの世界文化遺産として登録されています。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史道場」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。