さらに、美濃の稲葉山城(いなばやまじょう)に入った信長は城付近の地名であった「井ノ口(いのくち)」を「岐阜(ぎふ)」と改めました(城の名前も岐阜城としています)。なお、岐阜の名については、名君として知られた古代チャイナの周(しゅう)の文王(ぶんおう、または「ぶんのう」)が岐山(きさん)より興(おこ)ったというエピソードが由来であるとされています。
新たな征服者によって地名が変わるということは、世界の権力者にはよくあることでした。例えば、古代のアレクサンドロス大王が征服した地は「アレクサンドリア」と呼ばれ、現代でもエジプトの都市として残っています。
しかし、我が国では日本武尊(やまとたけるのみこと)が「草薙(くさなぎ)の剣」でなぎ倒した草を積んで火を放ち、敵を火攻めにしたことからついた「草薙」や「焼津(やいづ)」のように過去の伝承から地名が付いたり、あるいは足利(あしかが)氏や新田(にった)氏のように地名を自分の苗字にしたりすることはあっても、時代の権力者によって地名が変わるということは、これまでに例がありませんでした。
その背景には、信長による「天下統一へ向けて世の中を新しくする」という強い意思表示がありました。ちなみに信長以降は我が国で権力者が地名を変更することが当たり前となり、例えば信長の家臣であった羽柴秀吉(はしばひでよし、後の豊臣秀吉)は、近江(おうみ、現在の滋賀県)の今浜(いまはま)の地を信長から与えられた際に、信長の名にあやかって「長浜(ながはま)」に改めています。
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ということは、今後は信玄や北条氏から自己の領地を守るために、常に大軍を彼らとの隣接地に置かねばならないことになりますから、そんな「防衛するのが精一杯」の情勢において、天下統一を目指して上洛(じょうらく、京へ向かうこと)を目指すようなことが果たして可能でしょうか。
こうしたことが頭にあったゆえに、信長は奪えるかもしれない今川氏の領土をあっさりと捨てて家康に三河の攻略を勧めるという、いわば三河を「クッション」として自領の尾張を「安全地帯」にしたうえで、後顧(こうこ)の憂(うれ)いをなくして美濃を攻め取り、上洛への道を確保しようと考えたのです。
天下統一のためには目先の利益にこだわらず、常に長期的なビジョンを持つという信長の一貫した姿勢が、今後の彼の人生やその方針を大きく変えたのでした。
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当時の今川氏は三河から遠江(とおとうみ、現在の静岡県西部)、さらには駿河と広大な領地を持っていたのみならず、これらの地域は気候が温暖で収穫も多く、海の幸にも恵まれ、さらには金山もあるという、経済力豊かな「おいしい」場所でもありました。
通常の戦国大名であれば、何も考えることなくこれらの領地を狙うことでしょう。しかし、実際には信長は「おいしい」領地には目もくれず、三河の徳川家康(とくがわいえやす、前名を松平元康=まつだいらもとやす)と同盟を結び、家康に今川氏の領地侵攻を任せたうえで、自らは美濃の攻略を目指しているのです。
なぜ信長はこのような手段を選んだのでしょうか。実はこの選択こそが、信長が描いていた「天下統一へ向けての明確なビジョン」だったのです。
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義元の首を実際に討ち取った家臣よりも、義元が桶狭間を行軍中であるという情報を知らせた家臣の方が一番手柄であるとして、より多くの褒美(ほうび)を与えられているのです。その背景には、刀や槍による手柄よりも情報戦を制することが戦勝につながるという信長の考えがありました。
さて、義元の死によって今川氏は急速に勢力が弱まっていったのですが、ここで信長は通常の戦国大名とは全く異なる路線を歩むことになります。
なぜ信長はそのような行動をとったのでしょうか。この「なぜ」を理解することによって、私たちは信長の生涯をかけた「大きな目標」を目の当たりにすることができるのです。
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家臣からは籠城(ろうじょう)を勧める意見もありましたが、信長は動きませんでした。しかしその後、今川軍の攻撃開始を聞くと信長はすぐさま出陣し、熱田(あつた)神宮で戦勝祈願を行いました。
実は、信長は家臣からもたらされる「ある情報」を待っていたのです。そして、その情報こそが、圧倒的に不利と思われた情勢を一気に逆転できる唯一の手段でもありました。
やがて、信長に待望の「情報」がもたらされました。義元が窪地(くぼち)で身動きの取りにくい桶狭間(おけはざま)を行軍中だというのです。これを好機と見た信長は、ほぼ全軍を桶狭間に向かって突撃させました。折からの豪雨で視界の悪かった今川軍は、信長の奇襲に大慌(あわ)てとなり、体勢を立て直すことができないまま義元が信長の家臣に倒され、首を取られてしまいました。
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そんな中、応仁の乱から約1世紀を過ぎた頃に初めて天下統一の意思を明確にし、なおかつその実現に一生をかけて挑んだ人物が現れました。もちろん「織田信長」のことです。
さて、信長の出身である織田家はもともと尾張の守護大名であった斯波(しば)氏の代理人である守護代の家臣という身分でしたが、父である織田信秀(おだのぶひで)の頃には独立し、尾張の中で大きな勢力を持つようになりました。
信秀の急死後に若くして家督(かとく)を継いだ信長は身内を含めた争いに勝ち抜き、永禄2(1559)年には尾張一国を統一するまでに成長しましたが、そんな彼に大きな試練が不気味な足音とともに東の方角からやって来ました。
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ポルトガル船がカトリックの布教を認めた大名領にしか入港しなかったこともあって、各地の戦国大名の多くは南蛮貿易による権益の欲しさから宣教師の布教活動を保護するばかりでなく、なかには自らが洗礼を受けてキリシタン大名となるものも現れました。
キリシタン大名のうち九州の大友宗麟・大村純忠(おおむらすみただ)・有馬晴信(ありまはるのぶ)は、イタリア人宣教師のヴァリニャーニの勧めによって、天正10(1582)年に伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノの4人の少年使節をローマ教皇のもとに派遣しました。これを当時の年号から「天正遣欧(けんおう)使節」といいます。
カトリックによる教えは、ヨーロッパの進んだ文化にあこがれたり、あるいは既存の仏教を中心とした宗教勢力が権益を求めて争い合う姿勢に不満を持ったりした人々の間で急速に広まっていきましたが、その一方で、キリシタン大名の大村純忠が信仰心から自領の長崎をイエズス会に寄進(=神社や寺院などの施設に金銭や物品を寄付すること)するという前代未聞の行為も見られ、カトリックに潜(ひそ)む我が国侵略の野望は水面下で確実に広がっていきました。
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イエズス会による布教活動は、イスパニアやポルトガルによる植民地政策と一体化して行われました。布教の拡大によって地元住民にカトリックを信仰させ、その後に「神の名の下(もと)に」侵略を仕掛けることで容易に目的を達成できるという、いわばお互いの利害が一致した結果でした。
我が国との南蛮貿易も布教活動と一体化されており、天文18(1549)年にイエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に到着すると、領主である島津貴久(しまづたかひさ)の許可を得て布教活動を開始しました。
ザビエルは鹿児島から京都にのぼった後、山口の大内義隆や豊後府内の大友宗麟(おおともそうりん、別名を義鎮=よししげ)らの大名の保護を受けてキリスト教(=カトリック)の布教活動を続けました。
なお、当時のキリスト教はキリシタン(=切支丹)、あるいは天主教(てんしゅきょう)と呼ばれています。
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当時の我が国では、ポルトガル人やイスパニア人のことを「南蛮人(なんばんじん)」と呼んだことから、彼らとの貿易を「南蛮貿易」といいます。
南蛮貿易は、先に我が国に上陸したポルトガルを主体にして行われました。我が国には鉄砲やその火薬・香料・生糸(きいと)などが輸入され、我が国からの輸出品としては、当時生産量が増加していた銀のほか、金や刀剣がありました。
また当時の貿易港としては、松浦(まつら)氏の平戸や大村(おおむら)氏の長崎、大友氏の豊後府内(ぶんごふない、現在の大分市)など、九州地方が中心でした。
なお、ポルトガル人やイスパニア人が南蛮人と呼ばれたのに対して、17世紀初頭から来日したイギリス人やオランダ人は「紅毛人(こうもうじん)」と呼ばれています。
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手先が器用だった鍛冶(かじ)職人によって鉄砲がまたたく間に複製されると、やがて貿易港でもあった堺などにおいて大量に生産され、各地の戦国大名に売り込まれました。
鉄砲の出現は、それまでの弓や槍(やり)、あるいは騎馬隊を主力とした戦闘方法が、鉄砲による歩兵戦が中心になるなどの大きな変化をもたらました。また、鉄砲は雨が降ると使用できないという弱点を持つ一方で、雨の心配のない城の中ではいくらでも撃てることから籠城戦(ろうじょうせん)に最適とされ、城の構築方法も、それまでの山城(やまじろ)から平山城(ひらやまじろ)、あるいは平城(ひらじろ)へと変化していきました。
ちなみに、ポルトガル人は鉄砲そのものを我が国に購入させる目的で種子島にわざと漂着したのではないかとも考えられています。その野望は我が国で鉄砲が大量生産されたことで潰(つい)えましたが、火薬の原料となる硝石(しょうせき)が当時の我が国では生産されなかったことから、これを輸入することで貿易が成立することになりました。
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