緒戦の戦いは山名氏に優位に展開しましたが、細川氏が巻き返して将軍義政を保護したことで、東軍の優勢となりました。しかし、今度は山名氏が守護大名の大内政弘(おおうちまさひろ)に声をかけて京都へと攻めのぼらせるなど、両軍は一進一退の戦いを続けました。
そんな折、応仁の乱のきっかけをつくった当事者たちに異変が起きました。将軍義政の弟である義視は東軍の細川氏についていましたが、細川氏が義政を迎え入れた後に、義視の政敵である伊勢貞親(いせさだちか)が再び重用されたことに反発して出奔(しゅっぽん)しました。
翌応仁2(1468)年に一旦は京都へ戻ったものの再び出奔した義視は、こともあろうにライバルの義尚を支持していた西軍の山名氏へと身を投じました。これは、将軍を奪われて大義名分を失っていた山名宗全が、巻き返しの手段として義視を迎えたためと考えられており、事実、この後山名氏は義視を「将軍格」として様々な人事を発令しています。
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