義視からすれば、一度約束された将軍後継の地位を反故(ほご)にされてはたまったものではありませんし、義尚(よしひさ)の母の富子からすれば、自分がお腹を痛めて産んだ我が子が将軍後継になれないことほど愚かな話はありません。しかし、初代将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)のように優柔不断な義政には、どちらを後継にするかを決めることが出来ませんでした。
義政がいつまで経っても後継を決めないことに業(ごう)を煮やした義視と富子は、義視が管領の細川勝元(ほそかわかつもと)に、富子が侍所(さむらいどころ)の長官である四職(ししき)筆頭の山名持豊(やまなもちとよ、出家後の名は山名宗全=やまなそうぜん)にそれぞれ接近すると、細川・山名の両氏がこれを好機として、幕府の政治の実権を握ろうとお互いに争い始めました。
この他にも守護大名の畠山(はたけやま)氏や斯波(しば)氏の家督(かとく)争いがからんだことで、応仁(おうにん)元(1467)年についに京都で大きな戦いが起きてしまいました。戦国時代の幕開けともいわれる「応仁の乱」の始まりです。
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