我が国と朝鮮との日朝貿易は、幕府の他にも守護大名や有力国人(こくじん、地方豪族のこと)、あるいは商人までもが参加したために、貿易船の数が非常に多くなりました。
このため、朝鮮は嘉吉(かきつ)3(1443)年に嘉吉条約(別名を癸亥約定=きがいやくじょう)を結んで対馬の宗(そう)氏に貿易の統制権を与えたことによって、これ以降の朝鮮との貿易は主に宗氏を通じて行われるようになりました。
なお、李成桂が建国した朝鮮は、古代に存在した古朝鮮(こちょうせん)と区別するために「李氏(りし)朝鮮」とも呼ばれています。
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しかし、明の永楽帝(えいらくてい)の名が入った「永楽通宝」は、朝貢貿易での下賜(かし)を目的として鋳造(ちゅうぞう)されたものであり、それを日本国内で流通させることは、いかに形式的とはいえ、我が国が経済的にチャイナの傘下(さんか)に入ったことを意味していました。我が国が独自につくった銅銭は、江戸時代の「寛永通宝(かんえいつうほう)」まで待つことになります。
さて、室町幕府が衰え始めた15世紀後半に入ると、貿易の実権は堺の商人と結んだ細川(ほそかわ)氏と、博多の商人と結んだ大内(おおうち)氏の両者の手に移りました。貿易による利権をめぐって争った両者は、大永(だいえい)3(1523)年に明の貿易港である寧波(ニンポー)で武力衝突しました。この争いを「寧波の乱」といいます。
両者の戦いは大内氏の勝利に終わり、以後は大内氏が貿易を独占しましたが、天文(てんぶん)20(1551)年に大内氏が滅亡すると貿易は廃絶となり、先述した後期倭寇の活動が目立つようになりました。
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こうして始まった日明貿易ですが、明から交付された勘合(かんごう)という証明書を両国が照合することで私貿易と区別していたので、別名を「勘合貿易」とも呼ばれています。
日明貿易は、朝貢形式を嫌った4代将軍の足利義持(あしかがよしもち)によって応永(おうえい)18(1411)年に一旦は中断されましたが、幕府の財源確保を優先した6代将軍の足利義教によって永享(えいきょう)4(1432)年に再開されました。
日明貿易は聖徳太子(しょうとくたいし)以来の自主独立の外交路線に反した朝貢貿易でしたが、宗主国の立場である明が滞在費(たいざいひ)や運搬費(うんぱんひ)などのすべての費用を負担したので、我が国は大きな利益を得ることができました。
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一方、南北朝の動乱の頃には、西国の武士や漁民らによって武装した船団が組まれ、朝鮮半島や中国大陸南部の沿岸を襲(おそ)うようになりました。これらの海賊(かいぞく)は「倭寇(わこう)」と呼ばれ、沿岸住民から恐れられました。
ところで、倭寇は襲来(しゅうらい)の時期によって大きく二つに分かれます。南北朝時代の頃を中心とする「前期倭寇」は対馬(つしま、現在の長崎県対馬市)や壱岐(いき、現在の長崎県壱岐市)、あるいは肥前(ひぜん、ここでは長崎県)の松浦(まつら)地方を拠点とし、日本人を中心に構成されていました。
これに対して、15世紀後半から16世紀にかけての「後期倭寇」は肥前の平戸(ひらど)や五島(ごとう)を拠点としているものの、その大部分は中国人であり、大陸沿海での密貿易を主に行っていました。なお後期倭寇は、我が国を統一しつつあった豊臣秀吉(とよとみひでよし)が天正(てんしょう)16(1588)年に海賊取締令を出して厳しく対処したことで鎮圧されています。
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なお、本来はお酒を造っていた酒屋でしたが、売上げが伸びて多額の資本を持ったことで、次第に金貸しなどの様々な業種を扱うようになりました。また土倉の名は、金貸しが質入れされた品物を保管するために、土塗(つちぬ)りの壁で周りを囲った倉庫である土蔵(どぞう)を建てたことに由来します。
商業流通の活発化によって、物資を輸送するための海や川、あるいは陸における交通手段も発達しました。水上の輸送では廻船業者が活躍したほか、交通の要地には鎌倉時代の問丸(といまる)から発達した問屋(といや)が置かれ、多くの地方都市の繁栄をもたらしました。この他にも、多数の物資を運ぶために京都の輸送路を中心に各地で馬借(ばしゃく)や車借(しゃしゃく)などの運送業者が活躍しました。
なお、馬借とは馬の背に荷物を載せて運ぶ輸送業者のことであり、水陸交通の要地や主要街道沿(ぞ)いの町に集団で住み、船で運ばれたものを京都や奈良などに運び込んでいました。また、車借とは牛(もしくは馬)に車を引かせて荷物を運ぶ輸送業者のことです。
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また、遠隔地の取引が拡大したことで、現金を直接送付する場合のリスクを避けるため、為替(かわせ)手形の一種である割符(さいふ)の利用も盛んとなりました。
その一方で、需要の増大とともに粗悪(そあく)な私鋳銭(しちゅうせん)も流通するようになり、取引に当たって悪銭(あくせん)を選び捨てて良質の貨幣のみを求める撰銭(えりぜに、または「せんせん」)が行われました。
これを受けて、幕府や大名などは良銭の基準や悪銭と良銭の混入比率を定めた撰銭令(えりぜにれい)を出して、銭の円滑な流通を目指しました。
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また、連雀(れんじゃく)商人や振売(ふりうり)と呼ばれた行商人が各地で活動し、薪(まき)や炭などを頭に乗せて売り歩く大原女(おおはらめ)などの女性の活躍も目立ちました。
この他、京都や奈良・鎌倉などの大都市では見世棚(みせだな、別名を店棚)と呼ばれた常設の小売店舗(こうりてんぽ)が一般化するようになりました。
さらには商品の取引量の増加によって、京都の米場(こめば)や淀(よど)の魚市(うおいち)のように、特定の商品だけを扱う市場も現れました。
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製塩(せいえん)は瀬戸内海の沿岸で盛んに行われ、塩田(えんでん)に海水をくみ上げ、自然に蒸発させて濃縮したものを煮つめる揚浜(あげはま)や、伊勢(いせ、現在の三重県北中部など)地方などで潮の満ち引きを利用して海水を導入する古式入浜(こしきいりはま、後の入浜塩田=いりはまえんでん)が行われました。
鍛冶(かじ)では刀剣や農具の製作が盛んとなり、特に刀剣は武士の必需品となった他に日明貿易の主要な輸出品として、備前(びぜん、現在の岡山県東南部など)や山城(やましろ、現在の京都府南部)、大和(やまと、現在の奈良県)などで多数がつくられました。
手工業の同業者組合である座(ざ)もその種類や数を増やして各地域に広まり、なかには朝廷や大寺社の権威のもとで、通行税である関銭の免除や広範囲における独占的販売権を認められ、全国的な商売を展開した座もありましたが、その一方で座に加わらない新興商人も現れ、やがて座と対立するようになりました。
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また、水稲(すいとう)の改良が進んだことで、早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)など地方の風土に応じた品種が栽培(さいばい)されるようになりました。
肥料としては、それまでの刈敷(かりしき)や草木灰(そうもくばい)に加えて、人間の排泄物(はいせつぶつ)である下肥(しもごえ)が用いられるようになり、地味(ちみ、生産力から見た土地の質のよしあしのこと)の向上や収穫の安定化をもたらしました。
手工業がこの頃までに盛んになったことから、それらの原料となる苧(からむし)や桑(くわ)・楮(こうぞ)・藍(あい)・茶などの栽培が広まりましたが、農村加工業の発達によってこれらが商品として流通するようになり、生産性の向上も相まって、農民の暮らしは豊かになりました。
暮らしが豊かになったことで生活に余裕が生まれたことから物資の需要が高まると、やがて農村にも商品経済が発達していきました。
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足利義教が暗殺された後の政治の混乱時に起きた嘉吉(かきつ)元(1441)年の「嘉吉の土一揆(嘉吉の徳政一揆)」では、数万人が京都を占拠して将軍の「代始めの徳政」を要求しました。
それまで正式な徳政令を拒否し続けた幕府がついに折れて徳政令を発布(はっぷ)すると、味をしめた土一揆がその後も頻繁(ひんぱん)に蜂起(ほうき)して徳政令を要求し、幕府もその度に応じ続けるようになりました。
なお、幕府による徳政令の中には債務額(あるいは債権額)の5分の1もしくは10分の1にあたる分一銭(ぶいちせん)と呼ばれた手数料を幕府に納めれば、債務の破棄や債権の保護を認めるという分一(ぶいち)徳政令というのもありました。
要するに徳政令を幕府財政の確保の手段として利用していることになりますが、中央政府自らが進んでこんなことをやっていては、室町幕府の権威や信頼が地に堕(お)ちるのは当たり前とも言えます。
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