また、遠隔地の取引が拡大したことで、現金を直接送付する場合のリスクを避けるため、為替(かわせ)手形の一種である割符(さいふ)の利用も盛んとなりました。
その一方で、需要の増大とともに粗悪(そあく)な私鋳銭(しちゅうせん)も流通するようになり、取引に当たって悪銭(あくせん)を選び捨てて良質の貨幣のみを求める撰銭(えりぜに、または「せんせん」)が行われました。
これを受けて、幕府や大名などは良銭の基準や悪銭と良銭の混入比率を定めた撰銭令(えりぜにれい)を出して、銭の円滑な流通を目指しました。
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また、連雀(れんじゃく)商人や振売(ふりうり)と呼ばれた行商人が各地で活動し、薪(まき)や炭などを頭に乗せて売り歩く大原女(おおはらめ)などの女性の活躍も目立ちました。
この他、京都や奈良・鎌倉などの大都市では見世棚(みせだな、別名を店棚)と呼ばれた常設の小売店舗(こうりてんぽ)が一般化するようになりました。
さらには商品の取引量の増加によって、京都の米場(こめば)や淀(よど)の魚市(うおいち)のように、特定の商品だけを扱う市場も現れました。
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製塩(せいえん)は瀬戸内海の沿岸で盛んに行われ、塩田(えんでん)に海水をくみ上げ、自然に蒸発させて濃縮したものを煮つめる揚浜(あげはま)や、伊勢(いせ、現在の三重県北中部など)地方などで潮の満ち引きを利用して海水を導入する古式入浜(こしきいりはま、後の入浜塩田=いりはまえんでん)が行われました。
鍛冶(かじ)では刀剣や農具の製作が盛んとなり、特に刀剣は武士の必需品となった他に日明貿易の主要な輸出品として、備前(びぜん、現在の岡山県東南部など)や山城(やましろ、現在の京都府南部)、大和(やまと、現在の奈良県)などで多数がつくられました。
手工業の同業者組合である座(ざ)もその種類や数を増やして各地域に広まり、なかには朝廷や大寺社の権威のもとで、通行税である関銭の免除や広範囲における独占的販売権を認められ、全国的な商売を展開した座もありましたが、その一方で座に加わらない新興商人も現れ、やがて座と対立するようになりました。
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また、水稲(すいとう)の改良が進んだことで、早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)など地方の風土に応じた品種が栽培(さいばい)されるようになりました。
肥料としては、それまでの刈敷(かりしき)や草木灰(そうもくばい)に加えて、人間の排泄物(はいせつぶつ)である下肥(しもごえ)が用いられるようになり、地味(ちみ、生産力から見た土地の質のよしあしのこと)の向上や収穫の安定化をもたらしました。
手工業がこの頃までに盛んになったことから、それらの原料となる苧(からむし)や桑(くわ)・楮(こうぞ)・藍(あい)・茶などの栽培が広まりましたが、農村加工業の発達によってこれらが商品として流通するようになり、生産性の向上も相まって、農民の暮らしは豊かになりました。
暮らしが豊かになったことで生活に余裕が生まれたことから物資の需要が高まると、やがて農村にも商品経済が発達していきました。
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足利義教が暗殺された後の政治の混乱時に起きた嘉吉(かきつ)元(1441)年の「嘉吉の土一揆(嘉吉の徳政一揆)」では、数万人が京都を占拠して将軍の「代始めの徳政」を要求しました。
それまで正式な徳政令を拒否し続けた幕府がついに折れて徳政令を発布(はっぷ)すると、味をしめた土一揆がその後も頻繁(ひんぱん)に蜂起(ほうき)して徳政令を要求し、幕府もその度に応じ続けるようになりました。
なお、幕府による徳政令の中には債務額(あるいは債権額)の5分の1もしくは10分の1にあたる分一銭(ぶいちせん)と呼ばれた手数料を幕府に納めれば、債務の破棄や債権の保護を認めるという分一(ぶいち)徳政令というのもありました。
要するに徳政令を幕府財政の確保の手段として利用していることになりますが、中央政府自らが進んでこんなことをやっていては、室町幕府の権威や信頼が地に堕(お)ちるのは当たり前とも言えます。
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農民たちは正式な手続きを踏まずに領主のもとに押しかける強訴(ごうそ)や、全員が耕作を放棄して他領や山林に逃げ込むという逃散(ちょうさん)を行ったり、さらには武力によって反抗したりしました。これを「土一揆(つちいっき、または「どいっき」)」といい、土一揆の多くが徳政を要求したことから「徳政一揆」とも呼ばれます。
なお、土一揆はその地に土着した農民が一揆を起こしたのが名前の由来とされています。また、当時の社会で「支配者が交代することで色々な関係がリセットする」という考えがあったことが徳政一揆を生み出したと考えられています。
このような農民による実力行使は、地方の豪族である国人や、惣村の有力者である農民が守護大名などと主従関係を結んで武士の身分を得た地侍(じざむらい)らによって指導され、これらは結果として荘園領主や地頭などによる領主支配の困難化を招きました。時が経つにつれてその勢力を伸ばした惣村は、やがて領主を異にする周辺同士の連合を生み出し、大きな力となって領主や中央政府に向かって牙(きば)をむき始めました。
正長(しょうちょう)元(1428)年、京都に押し寄せた近江(おうみ、現在の滋賀県)の馬借(ばしゃく)に農民が加わって、集団で畿内一帯の酒屋(さかや)や土倉(どそう)を襲って質物(しちもつ)を奪い、貸借や売買の証文を破り捨てて、徳政令と同様の効果をもたらしました。これを私徳政(しとくせい)といい、この出来事を「正長の土一揆(正長の徳政一揆)」といいます。
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惣村では、結合の中心となった宮座(みやざ)と呼ばれる神社の氏子(うじこ)組織による村の神社の祭礼や農業における共同作業、あるいは戦乱に対する自衛などを通じて村民たちの結合への意識を高めていきました。このような惣村を構成する村民を「惣百姓(そうびゃくしょう)」といいます。
惣村は村民の代表者で構成される寄合(よりあい)の協議に基づいて、乙名(おとな、別名を長=おとな)、沙汰人(さたにん)、年寄(としより)などと呼ばれた村の指導者によって運営されました。また、村民は村の規則である惣掟(そうおきて、別名を村法=そんぽう、または村掟=むらおきて)を定めたり、村内の秩序を維持するために村民自身が警察権を行使する地下検断(じげけんだん、別名を自検断=じけんだん)を行ったりしました。
やがて惣村では薪炭(しんたん、たきぎやすみなどの燃料のこと)や肥料用の草木(そうもく)を育てるためなど、農業生産に必要な山や野原などの共同利用地である入会地(いりあいち)を確保したり、灌漑(かんがい)用水を管理したりするようになりました。
また、それまでは守護や地頭が請け負っていた年貢(ねんぐ)を惣全体でひとまとめにして請け負うという地下請(じげうけ、別名を村請=むらうけ、または百姓請=ひゃくしょううけ)も広がっていきました。
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文明17(1485)年、京都に近い南山城(みなみやましろ)地方の国人の指導によって分裂していた畠山氏の軍を国外へ追放し、約8年間にわたる一揆の自治支配を実現させました。これを「山城の国一揆」といいます。このように、身分の下の者が上の者の勢力をしのぐことを「下剋上(げこくじょう)」といい、この時代の大きな特徴になりました。
また、蓮如(れんにょ)による布教で広まった浄土真宗(じょうどしんしゅう)の門徒(もんと、宗門を同じくする信徒のこと)たちが、信仰による大きな力によってしばしば一揆を起こしました。浄土真宗は別名を一向宗(いっこうしゅう)ということから、浄土真宗の門徒が起こす一揆のことを「一向一揆」といいます。
なかでも加賀(かが、現在の石川県南部)の門徒たちは、国人と協力して長享(ちょうきょう)2(1488)年に守護であった富樫政親(とがしまさちか)を倒した後に、本願寺の僧侶(そうりょ)と門徒の農民を中心として、織田信長(おだのぶなが)に滅ぼされるまで約1世紀にわたって支配を続けました。これを「加賀の一向一揆」といいます。
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これでは何のために戦っているのか分かりません。戦いの当事者たちにもいつしか厭戦(えんせん、戦争をするのをいやに思うこと)の気分が盛り上がってきましたが、応仁の乱のきっかけのひとつであった守護大名の家督争いに決着がつかなかったこともあり、戦いはいつしか京都から全国に広がって、延々と果てしなく続けられました。
その後、文明(ぶんめい)5(1473)年に山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなり、同年に義政が義尚に将軍職を譲った後もなお戦いの決着がつかず、開始から約10年後の文明9(1477)年になってようやく終戦を迎えましたが、長きにわたった戦いで、京都の街は内裏(だいり、天皇の居所を中心とする御殿のこと)をはじめとして一面焼け野原となってしまいました。
応仁の乱が終わったことで、守護大名はそれぞれの領国に戻りましたが、一度火がついた争いは全国に拡大して、各地の荘園も混乱の中でその多くが守護代(しゅごだい)や地方豪族である国人(こくじん)などの支配下に入りました。
また、応仁の乱の頃から大名の兵力の中で「足軽(あしがる)」の存在が目立ち始めました。足軽は主に金銭面のみで大名とつながっていることが多かったために忠誠心が薄く、このため各地で暴徒化して略奪(りゃくだつ)を繰り返しました。
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緒戦の戦いは山名氏に優位に展開しましたが、細川氏が巻き返して将軍義政を保護したことで、東軍の優勢となりました。しかし、今度は山名氏が守護大名の大内政弘(おおうちまさひろ)に声をかけて京都へと攻めのぼらせるなど、両軍は一進一退の戦いを続けました。
そんな折、応仁の乱のきっかけをつくった当事者たちに異変が起きました。将軍義政の弟である義視は東軍の細川氏についていましたが、細川氏が義政を迎え入れた後に、義視の政敵である伊勢貞親(いせさだちか)が再び重用されたことに反発して出奔(しゅっぽん)しました。
翌応仁2(1468)年に一旦は京都へ戻ったものの再び出奔した義視は、こともあろうにライバルの義尚を支持していた西軍の山名氏へと身を投じました。これは、将軍を奪われて大義名分を失っていた山名宗全が、巻き返しの手段として義視を迎えたためと考えられており、事実、この後山名氏は義視を「将軍格」として様々な人事を発令しています。
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