我が国は蒋介石への援助を断ち切るためチャイナの沿岸を封鎖しましたが、各国は日本軍の勢力範囲外の陸路を通じて援助を続けました。なお、これらの陸路を当時は「援蒋(えんしょう)ルート」と呼んでいました。
援蒋ルートの主なものには仏印(ふついん、フランス領インドシナ、現在のベトナム・ラオス・カンボジアに相当)ルートやビルマルート・西北ルート・南支ルートの4つがありましたが、このうち最も重要だったのは仏印ルートであり、全ルートの半分以上の輸送量を占めていました。
我が国はフランスに対して仏印ルートによる援助行為を禁止するよう申し入れましたが、フランス政府は容易に承諾しようとしませんでした。しかし、1940(昭和15)年にフランスがドイツに降伏すると仏印ルートの封鎖を認めるようになり、2か月に及ぶ外交交渉の末に協定が成立し、これに基づいて我が国は日本軍を仏印に進駐させました。これを「北部仏印進駐」といいます。
我が国による北部仏印進駐は、ドイツに降伏した後のフランス政府であるヴィシー政権との間に結ばれた合法的なものでしたが、我が国に対する態度を硬化させていたアメリカはこれに反発し、イギリスに亡命していたド=ゴール政権こそがフランスの正当なる政府であるという口実で、我が国に対するくず鉄・鉄鋼の輸出禁止の方針を発表しました。
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