阿部内閣はアメリカとの関係改善をめざして交渉を続けましたが、すでに対日戦略を着実に固めつつあったアメリカは、日本軍の軍事行動の拡大や東亜新秩序の声明あるいは日本軍が天津(てんしん)の英仏租界(そかい、外国人居留地のこと)を封鎖したことを理由に態度を硬化させ、関係を改善するどころか、昭和14(1939)年に日米通商航海条約を延長しないことを我が国に通告してきました。
しかしながら、日本軍の軍事行動が拡大したのは日華事変の泥沼化(どろぬまか)やノモンハン事件に代表される対ソ連(現在のロシア)戦など、侵略よりもむしろ自衛を目的とする戦闘行為によるものでしたし、また東亜新秩序の声明も、日華事変解決を目的として国民政府に容共抗日策(ようきょうこうにちさく、中国共産党と結んで我が国に対抗する政策のこと)を捨てて我が国と連携(れんけい)するよう呼びかけただけでした。
さらに付け加えれば、天津における英仏租界の封鎖もイギリスの租界に逃げ込んだ殺人犯の引き渡しを当事者のイギリスが拒否したのが原因であり、いずれも我が国だけに一方的な非があるとは言いがたいものがあったにもかかわらず、日英間で協定が結ばれたのを不服としたアメリカが、その直後にいきなり条約の破棄を通告してきたというのが真相だったのです。
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