ドイツの要求に対し、イギリスのチェンバレン首相は話し合いと譲歩による宥和(ゆうわ)政策を推進し、イギリス・ドイツ・フランス・イタリアの4か国が集まって首脳会談を行ったうえでドイツの要求を認めました。これを「ミュンヘン会談」といいます。
チェンバレン首相が宥和政策をとった背景には、第一次世界大戦の終結からまだ約20年しか経っていないことから、ヨーロッパ全体で厭戦(えんせん、戦争することを嫌うこと)ムードが高まっていたことや、イギリス国内においてドイツに対抗できる戦力を再建するための時間稼(かせ)ぎを模索(もさく)していたこと、あるいはヨーロッパの内乱によってソ連の発展や支配力が強化されるのを恐れたからだという思惑が考えられています。
しかし、結果として宥和政策は成功したとはいえませんでした。勢いに乗るドイツがこれらの成果に満足せず、翌1939(昭和14)年3月にはチェコスロバキアを強引に解体してドイツの支配下に置いたのみならず、これに刺激を受けたイタリアも翌4月にアルバニアを併合したからです。
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