嘉吉(かきつ)元(1441)年旧暦6月、義教は結城合戦の祝勝会を行うという名目で、守護大名の赤松満祐(あかまつみつすけ)の屋敷に招かれましたが、宴(うたげ)の最中に突如(とつじょ)として乱入してきた武者たちに取り押さえられ、あっという間に首をはねられました。
そのあまりの手際の良さに、周囲の誰もが何の手助けもできなかったそうです。なお、この事件は当時の年号から「嘉吉の乱」もしくは「嘉吉の変」といいます。
義教の突然の最期は、幕府を含めた周囲に大混乱をもたらしました。義教を殺した赤松氏は幕府によって後に討伐されましたが、義教の死によって幕府や将軍の権威は必然的に大きく低下し、この後二度と復活できませんでした。
一方、「万人恐怖」の独裁者であった義教が殺害されたことで、それまで義教の存在を目の上のたんこぶのように苦々しく思っていた守護大名たちは、胸をなでおろして安堵(あんど)しました。
しかしながら、たとえ強引な手法であったとしても、世の中をそれなりにまとめていた将軍がいなくなったことで、守護大名はおろかその下の守護代も含めて、まるで箍(たが)が外れた桶(おけ)のように各自がバラバラに行動を始めてしまい、収拾がつかなくなってしまうのです。
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