まず義教は、4代将軍義持の時代に中断していた日明貿易を復活させて幕府の財政を潤(うるお)すと、その財力で奉公衆を整備して、将軍直属の軍事力をさらに強化した後に九州地方へ攻めのぼり、義満ですら果たせなかった九州平定を実現しました。
次に義教は、宗教勢力の掌握(しょうあく、自分の思いどおりにすること)を目指しました。将軍就任以前は天台座主として宗教界のトップに君臨していただけに、義教は今までの将軍とは違って、宗教に対する畏怖(いふ、恐れおののくこと)を全く感じていなかったのです。
義教と延暦寺とはやがて内戦状態となりましたが、義教が最後までぶれることなく厳しい姿勢を崩さなかったため、絶望した延暦寺では永享(えいきょう)7(1435)年に総本堂である根本中堂(こんぽんちゅうどう)に火をかけて多数の僧が焼身自殺するという騒ぎとなり、結果として、義教は宗教勢力をも完全に支配下に置くことに成功しました。
比叡山延暦寺の焼打ちといえば織田信長(おだのぶなが)が有名ですが、それよりも100年以上も前に、武力によって延暦寺を支配した将軍がいたことは意外にも知られていません。
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