南朝の勢力が賀名生へ逃げ帰った後も北朝の三人の上皇や皇太子は連れ去られたままであり、天皇であることを証明する三種の神器も南朝に奪われたままでした。
義詮は仕方なく、京都に残っておられた光巌上皇の第二皇子の弥仁(いやひと)親王を、神器も後見役となる上皇の存在もなしで無理やり後光厳(ごこうごん)天皇として即位させましたが、天皇の正当性としては神器を所有する南朝に遠く及ばず、北朝の権威が著しく低下するという悪影響をもたらしてしまいました。
なお、尊氏は翌年の南朝の正平8年/北朝の文和(ぶんな)2(1353)年にようやく京都へと戻りましたが、その後も直冬の攻撃を受けるなど混乱が続いた後、自分の代で平和を達成できぬまま、南朝の正平13年/北朝の延文(えんぶん)3(1358)年に54歳で死去しました。
※黒田裕樹の「百万人の歴史講座」をご紹介します。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※「黒田裕樹の歴史講座+日本史道場+東京歴史塾」のご案内です。他の教師とは全く異なる、歴史全体の大きな流れを重視した「分かりやすくて楽しい歴史」をモットーに多くの方にお教えいたします。詳しくは下記のバナーをご覧ください。
※無料メルマガ「黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編」の登録はこちらからどうぞ。多くの皆様のご購読をよろしくお願いいたします。


いつも応援いただきまして、本当に有難うございます。