要するに、義満は南朝に空手形(からてがた)をつかませたのです。南北朝の合一に関する義満の手法は卑怯(ひきょう)かつ詐欺的(さぎてき)なものでした。
しかし、彼の行動によって二つあった朝廷が一つにまとまったことで、それまでの混乱状態から回復して世の中が平和に向かうという皮肉な結果をもたらすことにもつながりました。まさに「平和は綺麗事だけでは達成できない」ということですね。
なお、義満に「だまされた」南朝の勢力は、皇統の子孫や南朝の遺臣らが幕府や朝廷(=北朝)に対して様々な抵抗を続けましたが、後には子孫が殺害されるなどの悲劇を生みました。これを「後南朝(ごなんちょう)」といいます。
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また、今後も両統迭立が行われるということは、後亀山天皇の子がいずれは天皇になるということであり、さらに国衙領の所有が認められるのであれば、南朝にとってはかなり有利な内容でした。しかし、それらはあくまで北朝と幕府が約束を守ればの話であり、実は、義満は条件のすべてを反故(ほご)にしてしまったのです。
南北朝の合一の条件のうち、まず皇位の継承の際の「譲国の儀式」は一切行われませんでした。後亀山・後小松の両天皇のご対面もなく、三種の神器が単に宮中(きゅうちゅう、ここでは朝廷の中という意味)に戻ったという形式となったのです。
これでは北朝が「失くした神器を取り戻した」ということになり、南朝の正当性が一切認められないことを意味します。また、退位された後亀山上皇も当初は正式に上皇と認められず、義満の裁定によって「不登極帝(ふとうきょくのてい)」、すなわち「即位していない天皇」に上皇の地位を与えるということになりましたが、即位が認められなければ、後亀山上皇が「治天(ちてん)の君(きみ)」として院政を行うことができません。
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南北朝の合一は、南朝の後亀山(ごかめやま)天皇が北朝の後小松(ごこまつ)天皇に三種の神器を譲られて退位されるという形式で行われましたが、そこには義満による巧妙な罠(わな)が仕掛けられていました。
義満が南朝の後亀山天皇に出した和睦の条件は以下のとおりでした。
1.三種の神器は南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇へ「譲国(じょうこく)の儀式」で渡すこと
2.皇位の継承に際しては、南北両朝が交互に即位する両統迭立を行うこと
3.諸国の国衙領(こくがりょう、国の領地のこと)を南朝の所有とすること
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こうした守護は「守護大名」と呼ばれ、またその支配体制を「守護領国制(しゅごりょうごくせい)」といいます。
全国の守護大名の中には、大内(おおうち)氏や山名(やまな)氏のように数か国にまたがる領地を持つものもあり、特に山名氏は11か国にまたがる広大な領地を治めたことで、全国66か国のうちの「六分一殿(ろくぶんのいちどの)」と呼ばれるなどの権勢を誇り、やがては幕府の言うことに従わないようになっていきました。
その一方で、地方に土着した武士の中には守護大名の支配を受けずに自立の道を歩み出そうとする「国人(こくじん)」と呼ばれた者もいました。守護の権限が弱い地域において、国人たちは自らの領主権を確保するため組織的に一揆(いっき)を起こしました。これを「国人一揆」といいます。
国人たちは互いに協力し合うことで自主的な地域権力を持つようになり、守護大名への抵抗や農民に対する統制を行いました。
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全国の武士を動員するため、幕府は守護に従来の大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)に加えて自己の所有権を主張して勝手に田地の稲を刈り取るという乱暴な行為である刈田狼藉(かりたろうぜき)を取り締まる権限や、幕府による裁判の判決を強制的に執行する使節遵行(しせつじゅんこう)の権限を与えました。
また、軍事や警察の権限を与えられた守護の軍費調達のために、一国内の荘園や国衙領(こくがりょう、国の領地のこと)の年貢の半分を守護が兵糧として徴発するという半済令(はんぜいれい)を守護に認めました。
半済令は動乱の激しかった地域に一年限りで認められていましたが、やがて永続的に行われるようになり、ついには年貢のみならず土地の分割まで認められるようになりました。
守護による土地の侵略に悩まされた荘園領主や国司は、鎌倉時代の「地頭請(じとううけ)」のように年貢の徴収を守護に請け負わせる「守護請(しゅごうけ)」によって自らの収入を確保しようとしましたが、このことが守護の実質的な荘園や公領の支配へとつながりました。
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こうした尊氏のいわゆる「負の遺産」をどう処理すればよいのかという大きな課題が、室町幕府代々の将軍を悩ませるとともに、我が国の歴史にも大きな影響を及ぼしていくのです。
ところで、この時代までに分割相続による惣領制(そうりょうせい)が崩壊(ほうかい)したことで単独相続が一般的になり、庶子(しょし)が惣領に扶養(ふよう、養ってもらうこと)されるようになりました。
その結果として、各地の武士団の内部で支配権をめぐる対立や分裂が激しくなりました。そして、対立した片方が北朝につけばもう片方は南朝につくなど、武士団の争いが南北朝と結びついたことによって動乱がさらに拡大してしまったのです。
これらの動きは、地方の武士団の結びつきが、それまでの血縁的な結合から地縁的(ちえんてき)結合へと変化していく流れをもたらしました。そして、惣領から独立するようになった庶子家や弱小御家人を支配下におさめ、勢力を拡大しようとする守護も現れるようになりました。
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「優しい人」「気前の良い人」といえば人間が本来持つべき性格であるとされ、私たち一般人の間では好かれる傾向にありますが、政治の世界においてはマイナスでしかありません。なぜなら、尊氏の「優しさ」は政敵を抹殺することをためらわすことで「優柔不断」となり、結果として幕府の将来に暗雲をもたらしてしまったからです。
尊氏が亡くなった南朝の正平13年/北朝の延文3(1358)年において、幕府の勢力が及んだ地域は鎌倉と京都が目立つのみであり、中国地方は足利直冬が、九州は後醍醐天皇の子である懐良(かねよし、または「かねなが」)親王が実質的な支配を固めていました。
しかも、三種の神器を所有している南朝こそが正当であるとみなされたことで、尊氏の征夷大将軍を保証する北朝の権威が低くなり、それと連動して足利将軍の地位も低く見られる傾向にありました。
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南朝の勢力が賀名生へ逃げ帰った後も北朝の三人の上皇や皇太子は連れ去られたままであり、天皇であることを証明する三種の神器も南朝に奪われたままでした。
義詮は仕方なく、京都に残っておられた光巌上皇の第二皇子の弥仁(いやひと)親王を、神器も後見役となる上皇の存在もなしで無理やり後光厳(ごこうごん)天皇として即位させましたが、天皇の正当性としては神器を所有する南朝に遠く及ばず、北朝の権威が著しく低下するという悪影響をもたらしてしまいました。
なお、尊氏は翌年の南朝の正平8年/北朝の文和(ぶんな)2(1353)年にようやく京都へと戻りましたが、その後も直冬の攻撃を受けるなど混乱が続いた後、自分の代で平和を達成できぬまま、南朝の正平13年/北朝の延文(えんぶん)3(1358)年に54歳で死去しました。
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南朝は尊氏が遠征した隙をついて北畠親房の指揮によって京都へ攻め込み、幕府予備軍であった義詮の軍勢を敗走させると、勢いに乗った南朝は、北朝の三人の上皇と皇太子を自分たちが追われていた賀名生へと移しました。
かくして後醍醐天皇が吉野朝廷を開いて以来、後醍醐天皇の子の後村上(ごむらかみ)天皇によって、16年ぶりに南朝が京都を支配したのです。時に南朝の正平7年/北朝の観応3(1352)年旧暦閏(うるう)2月のことでした。
しかし、南朝の天下は長続きしませんでした。体勢を立て直した義詮が京都へ再び攻め込んだからです。南朝はしばらくの間は持ちこたえたものの、同年旧暦5月には追い落とされ、後村上天皇や親房は再び賀名生へと逃れていきました。
ちなみにこの後、南朝は一度も京都を回復しないまま、南朝の元中(げんちゅう)9年/北朝の明徳(めいとく)3(1392)年に北朝との合一(ごういつ)を迎えることになります。なお、南朝と義詮とが争っている間に、尊氏と戦って敗れた直義が南朝の正平7年/北朝の観応3(1352)年旧暦2月に急死しました。尊氏による毒殺説もありますが、直義を討つために南朝と和睦するなど、幕府政治の根幹を揺(ゆ)るがした後となってはすべてが手遅れでした。
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その後、一旦(いったん)は和議が成立したものの、再び尊氏が直義を東西から挟み撃ちで倒そうとすると、尊氏の計略に気づいた直義は、京都を脱出して北陸伝いに鎌倉へ攻め込もうとしました。
武家政権発祥の地である鎌倉を奪われては尊氏の立場がありません。尊氏は直ちに直義軍を追撃しようとしましたが、自分が遠征している間に直義派となった南朝に京都を制圧されて尊氏追討の綸旨(りんじ、側近が出す天皇の命令書のこと)を出されれば、自分が朝敵となって滅亡への道を歩んでしまうのは火を見るより明らかでした。
進退窮(きわ)まった尊氏は、北朝から征夷大将軍に任じられているにもかかわらず、それまで敵対していた南朝と手を結んで、自分の味方につけるしか手段がありませんでした。
以前には後醍醐天皇、今回は直義といった、自分に敵対する勢力を政治的に抹殺することなく「生かして」しまったことで、尊氏は多くの血を流したうえにやっとの思いで構築した政治のシステムを、自らの手で破壊せざるを得なかったのです。
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