要するに、長期化しつつあった日華事変(=日中戦争)を打開するために、我が国は首都攻略という手段を選んだのであり、そこに領土的野心が存在する余地は全くなかったのです。
さて、首都攻略を決意した日本軍でしたが、その行動は実に慎重でした。いきなり南京を攻めるようなことをせず、籠城(ろうじょう)する国民政府軍に投降勧告を行って退却をうながし、彼らが拒否をしてから攻め込んだのです。
なぜなら、我が国と国民政府との戦いは当時の世界各国が注目しており、決して親日とは言えない外国人ジャーナリストも日本軍の一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)に注視していたからです。南京攻略の責任者であった松井石根(まついいわね)陸軍大将も「後世の模範となるような行動をとるべし」と軍規の徹底を呼びかけていました。
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②受講中は『マスク』着用を必須とします。
③『咳エチケット』をお守りください。
④風邪症状がある場合等は受講を慎重にご判断ください。咳・発熱などの一般的な風邪症状がある場合には、受講をお控えいただくようお願いいたします。
オンライン式講習会のお申し込み方法の詳細は追記に掲載しておりますので、ご参照ください。また、準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは3日前(1月27日)の正午(午後0時)までとなりますのでご注意ください。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。

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第88回黒田裕樹の歴史講座「渋沢栄一とその時代 ~日本資本主義の父~」
新たに発行される一万円札の顔であり、NHK大河ドラマの主人公にもなった渋沢栄一は「日本資本主義の父」と呼ばれていますが、その生涯は紆余曲折の連続でもありました。激動の時代に90年以上の長寿を全うした彼の人生を、幕末の歴史的事実と照らし合わせながら黒田節が分かりやすく紹介します。ご期待ください!
主催:株式会社スペック・正しい歴史を伝える会
後援:授業づくりJAPAN・新聞アイデンティティ
日時:令和4年1月30日(日) 午後2時より
会場:シアターSPEC(株式会社スペック)
(※下線部をクリックすると、所在地や地図が書かれたリンク先に移動できます)
※会場は「太融寺」交差点角の太融寺の隣、茶色いレンガ模様の9階建てのビルの8階です。1階に大阪商工信用金庫があります。ホワイティうめだの「泉の広場」M14出口を左側から出て、扇町通沿いに真っ直ぐ歩いてください。
参加費:金2,000円(税込・高校生以下は無料、その他学生割引あり)
※オンライン式講習会のお申し込みにおいて、レジュメを事前に郵送でご希望の場合は金2,500円(税込)になります。
オンライン式講習会のお申し込み締め切り:1月27日の正午(午後0時)まで
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①まずはこちらのURLから「お申し込み」をクリックしてください。
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②講座申込フォームに必要事項を記載のうえ、送信してください。折り返し、ご指定のメールアドレスに事務局からの案内メールが届きますので、それをご参照のうえ、24時間以内にPayPalまたは銀行振込で参加費をお支払いください。
③講座当日に使用するレジュメは、ご入金確認後にレジュメデータ(PDF)をメールにてお送りさせていただきます。なお、ご入金の確認が取れない方につきましては、キャンセル扱いとなりますのでご注意ください。
<当日ご準備いただくもの>
①カメラ&マイク機能搭載のパソコン
※スマートフォンのアプリからもご使用いただけますが、画質・音質に不具合が生じる可能性があります。スマートフォン以外のパソコンを使用されることを推奨いたします。
②歴史講座レジュメ
※レジュメにつきましては、ご入金後にメールにてレジュメデータ(PDF)をお送りさせていただきます。なお、レジュメの事前の郵送も承りますが、先述のとおり参加費が金500円追加となります。
<ZOOMの招待状について>
ZOOMでご参加いただくためには、事務局よりお送りさせていただく『招待状』よりご入室していただく必要があります。招待状につきましては、講座前日の午後4時以降にお送りします。
その他、ご不明な点がございましたら、ご遠慮なく下記の事務局にまでお問合せください。
<お問い合わせ先>
〒530-0051
大阪府大阪市北区太融寺町5-15梅田イーストビル8階
電話:050-3530-8995
メール:theaterspec@specgroup.jp
黒田裕樹の歴史講座事務局(株式会社スペック内)
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しかし、国際連盟のブリュッセル会議では対日制裁は行われず、蒋介石の思惑は外れました。また、和平工作が行われていた間に日本軍が杭州湾(こうしゅうわん)に奇襲上陸して国民政府軍が攻撃されるなど、膠着状態が続いていた戦線が一気に動き出しました。
事態の悪化を悟った蒋介石は、12月に入ってトラウトマン和平工作を受けいれる姿勢を見せましたが、詳しい回答を保留したまま本格的な交渉に応じようとしませんでした。
国家の最高責任者と思えないような遅々とした行動を蒋介石が繰り返している間に、上海の鎮圧に成功した我が国は、国民政府の首都であった南京(ナンキン)を攻略する決断を下したのです。
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一方、不拡大方針を放棄したとはいえ、可能な限り早期の停戦を模索(もさく)していた日本政府と軍部の首脳は、中立的な第三国の仲介を通じての和平をめざしました。
和平の仲介を最終的にドイツに依頼することにした日本政府は、同年11月2日に和平条件を駐日ドイツ大使に通知しましたが、その内容はかつての船津和平工作と同様に寛大なものでした。
我が国からの和平条件が妥当(だとう)なものであると判断したドイツ政府は、同月15日にトラウトマン駐華大使を通じて蒋介石に日本側の和平条件を通知しました。これら一連の和平への動きを「第一次トラウトマン和平工作」といいます。
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戦後の歴史教育では「日華事変」と主に呼ばれてきましたが、なぜか昭和50年代(1970年代後半~1980年代前半)頃から「日中戦争」と呼ばれるようになり、そのまま現在に至っていますが、そもそもこの戦いに「戦争」という表現は相応(ふさわ)しくありません。
なぜなら、戦争というのはお互いに宣戦布告をして始めるものであるのに対して、盧溝橋事件以後の動きではそれらは一切見当たらず、中華民国が正式に我が国に宣戦布告したのは、真珠湾攻撃が行われた直後の昭和16(1941)年12月だったからです。ちなみに中華民国による宣戦布告を受け、我が国では一連の戦いを、支那事変を含めて「大東亜戦争」と名づけています。
これらの歴史的事実が存在することから、可能な限り当時の状況に即して説明するため、今後は多くの歴史教科書で使用されている「日中戦争」ではなく、戦前及び戦後を通じて長く使用された「日華事変」という呼称で統一しますので、ご理解くださるようお願いします。
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ではなぜ蒋介石はわざわざ事変を起こしたのでしょうか。その理由として考えられるのは、第二次上海事変を通じて「日本が中華民国を侵略している」というイメージを作り出し、チャイナに対する国際世論の同情を集めようとしたのではないかということです。
だからこそ蒋介石は、一般市民が逃げられないように道路をすべて封鎖したうえで、民間人がいる可能性が高いホテルなどを中心に爆撃を加えたのみならず、欧米人の犠牲者をわざと出すことで、列強の目をチャイナに向けさせようとしたともされており、事変を拡大させた蒋介石の責任は重大であると言わざるを得ません。
なお、こうした国民政府による一方的な虐殺や事変が相次(あいつ)いだことによって、日本政府は自国民を中心とする生命や財産などを守るために、中華民国に対する不拡大方針を放棄せざるを得ず、この後日本軍はチャイナの軍隊に引きずられるかのように戦線を中国大陸の全土に拡げ、果てしない戦いを続けることになってしまうのです。
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そして、通州事件や大山事件から間もない昭和12(1937)年8月12日に、国民政府軍が日本総領事館と商社の電話線を切断し、翌13日には上海の租界(そかい、中華民国内の外国人居留地のこと)から外に通じる道路をすべて遮断(しゃだん)して、多くの日本人やチャイナの人々を含む一般市民が逃げられないように閉じ込めたうえで一方的な攻撃を開始しました。これを「第二次上海事変」といいます。
事変発生時、上海の日本軍は海軍陸戦隊の約4,000名しかおらず、もし陸戦隊が全滅して国民政府軍の租界への侵入を許せば、第二の通州事件として大虐殺(だいぎゃくさつ)が起きるのが目に見えていたことから、我が国は同日のうちに陸軍2個師団の派遣を決定しましたが、2個師団は同月23日にようやく上海に到着しました。
このため、我が国の海軍陸戦隊は10日近くも10倍以上の敵兵相手に奮戦することとなってしまいました。何とか全滅は免れて「上海大虐殺」という最悪の事態は防げたものの、上海が列強の共同租界であったため、日本人やチャイナの人々、あるいは欧米人を含む約3,600名が死傷するという悲劇となってしまったのです。
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事件に対し、チャイナは大山中尉が中国兵を殺害したのが原因であると主張しましたが、その証拠となった中国兵の死体が事件発生当初には存在せずに後から置かれたことや、殺された中国兵が小銃で後ろから撃たれたのに対し、大山中尉はピストルしか持っていなかったうえに袋の中に入れたままであった(つまり、大山中尉は小銃を発砲していない)ことが判明し、チャイナの主張が出鱈目(でたらめ)であることが分かりました。
この事件により、同日に始まった船津和平工作が中止となってしまったうえに、わずか数日後には上海全体を巻き込んださらなる一大事変が発生してしまうのです。
なお、大山事件に関しては、国民党に潜(ひそ)んでいた中国共産党のスパイが蒋介石(しょうかいせき)に日本への攻撃を迫る目的で仕組んだものであることが後に明らかとなっており、彼の狙(ねら)いどおりに和平交渉が消滅したことになります。
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和平工作において、我が国は元上海(シャンハイ)総領事で国民党の信頼が厚かった船津振一郎(ふなつしんいちろう)を担当者としたため、この和平の交渉は「船津和平工作」と呼ばれています。
船津和平工作において我が国は、日中軍事停戦協定(別名を塘沽[=タンクー]停戦協定)など華北に対する従来の軍事協定をすべて解消する代わりに、国民政府が満州国(まんしゅうこく)を黙認するほか反日運動を取り締まるという、極めて寛大な条件を示しました。
ところが、船津和平工作をめぐって最初の話し合いが行われた日に、またしても日本人が無惨にも殺害されるという事件が起こってしまったのです。
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それにしても、通州事件の存在をこれまで口をつぐんで無視し続け、ごまかせなくなると事実の本質を歪めようとする人々は、この虐殺がもたらした事態の深刻さに気づいていないか、あるいは気づかないふりをしているつもりなのでしょうか。
「通州事件の残虐さに当時の多くの日本人が激高し、対中感情が一気に悪化してこの後の中華民国との関係に決定的な影響を与えた」。
この歴史的事実をしっかりと理解し、かつ教えなければ、我が国を含む近現代史の真実は永久に見えてこないのです。
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